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特集:21世紀 食料・農業・農村を拓く女性たち
――JA全国女性協創立50周年記念

インタビュー
「餓死防衛」運動進め 焼け跡から国会へ
党派超えた恋の軌跡も−−園田天光光さん


聞き手:坂田正通氏(農政ジャーナリストの会会員)

 敗戦直後の食糧難の時代にカリスマ的人気で「餓死防衛同盟」という自然発生的な団体の委員長にまつりあげられ、昭和21年に衆院議員に当選した。婦人参政権ができて最初の女性代議士だった。社会党、労農党に加わった後、無所属時代に自民党の園田直・元外相と結婚。話題となった。現在も講演活動などで元気に飛び回っている。その劇的で先駆的な女性の生きざまは、今の転換期にも示唆が大きい。

◆ 人前で、生まれて初めて焼け跡の惨状を訴える

(そのだ てんこうこう)大正8年生まれ。昭和15年東京女子大学英語専攻部、17年早稲田大学法学部各卒業。19年海軍省報道部嘱託、20年餓死防衛同盟委員長、21年衆議院議員、当選3回。現職=(社)アジア福祉教育財団評議員、自民党各種女性団体連合会長、英国セントエドマンズ・レディスカレッジ理事長、日中平和友好連絡会会長など。勲三等宝冠章、ペルー共和国平和功労賞受賞など賞多数。

−−国会議員になるまでのいきさつなどをお聞かせ下さい。

 園田 私は戦争中の空襲で2度も死に直面しました。そのために周りの人たちがたくさん死んだ中で、なぜ私だけが“生き残された”という思いに悶々とし、その苦悩が戦後の衆議院議員活動につながりました。
 東京を焼け出された私たち一家は川崎の在で農家の納屋を改造して住みました。私は自分の苦悩の中に閉じこもっていましたが、終戦から1ヵ月余、たまたまラジオで復員者の嘆きや絶望の声を聞き、世の中のことに考え及ばなかった自分に気がつき、世間に目を向けました。
 私は父を誘って上野駅の惨状を見に出かける途中、一面の焼け野原を眺め、そうだ、生き残された者は、この廃墟にもう一度、緑を生やし、街を起こさなければいけないのだと使命のようなものを感じました。
 上野駅は浮浪者や孤児で足の踏み場もなく、地下道には顔に新聞紙をかぶせたりした餓死者の死体が並んでいました。そこで改めて、私たちが生き延びなくては死者たちに相済まないといった気持ちになりました。
 父もよく似た思いだったのか、新宿西口まで戻った時に、同行した秘書に突然『どうだ、上野で感じたことを、ここで演説してみないか』と持ちかけ、秘書が街頭演説を始めました。

−−お父さんのご職業は?

 園田 おコメの相場師でした。さて秘書は男ですが、演説には誰も足を止めません。そこで父は私に向かって『女が人前で大声を出せば精神異常かと思って人が寄って来るだろう。今度はお前がしゃべってご覧』と命じました。男の子がいない父は、娘たちを大学に行かせるなどして男並みに扱っていたのです。

−−当時の園田さんは26歳でしたか。それで、お仕事は?

 園田 戦争中は海軍省報道部嘱託でしたが、戦後は無職でした。私は上野駅探訪後、みんなで助け合って生きていこうという気持ちになり、それを、どう人に伝えたらよいのかと考えていた矢先なので、生まれて初めて人前で胸の内を声に出しました。
 すると間もなく人垣ができて、後ろの人からは『顔が見えないぞ。高い所に上がってしゃべれ』との声もかかりました。演説後は群衆から『明日も集まろう』との提案が出ました。

−−翌日もやりましたか。

 園田 ええ。翌日は私の演説中に『この娘の意見に賛成の人は署名して下さい』と名簿を作る人がいて、その後は毎日署名が増え、やがて1万を超えました。それからは名簿をもとに食料調達の運動を始めました。おイモの値段が高騰して失業者には買えないという時代です。
 名簿を頼りに農村部の人たちと相談して農産物を集める約束をし、街の人たちは焼け残りのトラックやガソリンを見つけてきました。こうして新宿西口に運んだ農産物を署名者たちに分けました。これは生協運動の走りみたいなものですね。

◆米の配給と住む家の確保
  2つの要求掲げ国会デモ

−−いゃあ、まさに手づくりの協同運動ですね。

 園田 しかし政府のコメの配給が途絶えた時には蔵前の米蔵を焼き討ちしようという意見も出たんですよ。そこで暴動が起きないようにと相談し、幣原喜重郎首相への陳情を決めました。項目はコメの配給を急ぐことと、住む家のない人に旧軍の兵舎を開放することの2つでした。
 昭和20年12月1日でしたかしら。当日は陳情団が集合した新橋駅前に『餓死防衛同盟』という旗を何本も立っていました。これは新宿の街頭演説会のためにと青梅の方が提供した木綿の反物で作った旗です。

−−みんな自発的に物を出し合ったんですね。今の運動は事務局任せになっています。

 園田 竿も竹藪を持つ人が提供したんですよ。『餓死防衛同盟』の名称は私の発案でした。そして陳情団は開会中の国会までデモ行進をしました。しかし議員面会所では、紹介議員がいないからと門前払いです。そんなことを知らなかった私たちと衛視が押し問答をしていると、それを耳にした社会党の松本治一郎先生が紹介議員になってくれました。そして幣原総理に面会して窮状を訴え、2つの陳情趣旨が年内に実現しました。

◆婦人参政権ができて最初の選挙に当選

−−衆院選立候補の直接的なきっかけは何ですか。

 園田 ある会社の社長が私の演説を聞き『街頭でが鳴っていないで国会に入ってが鳴りなさい。世の中は国会を中心に動くようになるのだから』と強く勧めたからです。しかし最初は、私の行動が政治的野心によるものと受け取られたのかと思って口惜しくて泣き明かしました。代議士などは、みな政治屋だと教え込まれていたせいもあります。
 ところが、これを聞いた同盟の人たちは、みんなの身代わりとして国会で私たちの意見を代表するのは良いことだと社長に賛成し、また国会の清涼剤になってほしいといった意見も出ました。そんな中で、私も狭い考え方を反省し、結局、21年4月10日の選挙に立候補することを決意しました。

−−婦人参政権ができて最初の選挙ですか。

 園田 そうです。選挙運動では社長から焼けビルを借りて事務所にしました。トラックもマイクもなく、みんなメガホンを手に電車を乗り継いで、1駅ごとに駅前で演説をし、東京2区の中では八王子までいきました。

−−所属政党はどこですか。

 園田 最初は餓死防衛同盟として諸派で出ました。しかし翌22年の2回目は社会党から出ました。しかし片山哲連立内閣の時に若気の至りで公共料金値上げに反対し、党大会で『連立だから値上げもやむなしというのなら連立をやめろ』などと食い下がり、除名と決まりました。そこで除名される前に黒田寿男さんら青票の7名と共に脱党して労農党を設立しました。
 しかし労農党の資金の出所がどうもわかりません。幹部は、はっきりおっしゃらない。そんなことから結局、労農党からも脱党し、無所属になりました。

−−無所属の時に園田直議員と結婚されましたね。当時は白亜の殿堂の恋などと騒がれましたが、与党と野党の考え方の違い、思想を乗り越えての恋の成就というわけですか。

 園田 まあね。しかし主人は“日の丸共産党”だなどといわれたユニークな自民党員でした。

−−ご主人は、その後、大臣を5度も務められました。

 園田 厚生大臣2回と外務大臣3回、それから副議長でした。

−−とくに日中国交正常化の条約締結では園田外相の決断が大きかったですね。

 園田 尖閣列島の先議問題で党内がまとまらず、福田赳夫総理の決断がなかなか出なかったもんですから。最後は事務次官と主人が辞表を懐に入れていると知った総理が腹をくくり、先議しないことになりました。しかし主人が北京へ出向いた後も党内では曲折があったんですよ。

−−園田さんには出産8日目に国会へ出席されたという有名な話もあります。

 園田 出産後まだ病院にいる時に出てきてくれといわれました。重要法案の票決が接戦で負ける恐れがあるというのです。結局私が出席して1票の差で成立したと記憶しています。当時と比べて、今は女性議員が増え、国会の中に託児所もできました。様変わりですね。

−−先生のような先達が道を開いたからです。ところで結婚後は立候補されましたか。

 園田 したけど落選しました。そこでね。私は2人が議員でいても虻蜂取らずではないか、あなたに2人分の働きができるのなら私は陰に回るが、どうかと聞きますと、主人が『よし、やろう』と答えたので以後35年、私は表には立ちませんでした。

◆昔は食糧確保で餓死を防ぐ
  今は心の防衛が必要です

−−話は変わりますが、農村女性は元気です。例えば過疎地では自分たちが守らないと地域が壊滅してしまうと、がんばっています。先生のお話を聞くとそうした女性が、いっそう元気づけられると思います。

 園田 私も主人の選挙区だった天草(長崎県)に帰ると、農協婦人部にしばしば顔を出しましたが、みなさん元気ですね。地域のリーダーシップを取っていますよ。しっかりしています。村の活性化でもいろんな活動をしていましたしね。

−−初めて立候補されたころは食料危機の時代でした。今は飽食の時代です。どうですか。

 園田 今は『心の餓死防衛同盟』の時代だといっています。昔は食料確保で餓死を防がなくっちゃと思いましたが、今は心の防衛が必要じゃありませんか。

−−心が豊かじゃないということですか。

 園田 豊富な食べ物で育った世代には食料の有り難さ、日本人の心の基本にあった何事にも感謝するという気持ちがなくなっています。感謝の念は先祖から受け継いだ民族的な心であり、宝物じゃなかったのか。今は日本人の心が忘れられています。
 今は己れを見詰め己れを育てていく教育をしなくなり、そこから今日の姿が生まれてきたのだと思います。終戦50周年の記念行事に出た時に、敗戦の痛みを今になって思い知らされるのかなあと感じました。
 しかしね。くり返しになりますが、農村女性の底力はすごい。あの意欲がある間は日本は大丈夫です。滅びません。

−−今また上野駅にはホームレスが増えましたが…。

 園田 でも、戦争直後は、死体が転がる中で、みんな生き延びようと真剣でした。だから復興した。今はどうでしょう?

−−先生は18年前に乳ガンにも打ち勝ちましたね。

 園田 医師は患者を生き延びさせようと手術をしますが、やはり本人自身の生きようとする意欲が一番大事だと思います。

−−最近の食生活についてはどう思われますか。

 園田 おふくろの味がなくなっていますね。母親が心をこめたものを食べている子供たちは何かを心の中に育てていると思います。手抜きをすれば、それだけ花の咲きようが悪くなります。買ってきた料理でも、器を変えるとか何か母の心を添えて出す気持ちがほしいですね。

−−最後に、お名前はお父さんがつけられたのですか。

 園田 父は大きいものが好きなので、まず宇宙を意味する『天』をつけ、次に自然界の大事な分子である『光』、さらに生まれてきたからには世の中の光に育つようにと、もう1つ『光』をくっつけたといっていました。


(インタビューを終えて)
 天光光(てんこうこう)さんの名前がユニークである。子どもの頃、光を1つ省略して名前を書いていたら、名付けたお父さんに叱られた。天は宇宙を表す、最初の光は世の中を照らし、次の光は家族を照らす親の願いが込められているのだと。本名である。
 女の子なのに、当時の従順な女性が尊ばれる風潮に逆らい、ズボンを履け、女子大でなく普通の大学へ行けなどと男の子として育てられた。実母は11才の時亡くなり、祖母の元で成長したが、お父さんが再婚しても、お継母(かあ)さんでなく「お父さんの奥さん」と呼ばされていた。結婚してからは、園田直の妻で通し、「天光光」の名前を使い出だしたのは夫の死後であるという。
 女性代議士に初当選の頃のお話は、人が生きようとする意欲と迫力が感じられ、立って話す「天光光」さんの周りに続々と人々が集まり、その街頭演説に引きこまれる人の輪の情景が目に浮かぶようだ。18年前の乳がんの手術は完治、現在も各種会合での講演などでご活躍中である。(坂田)


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