農業協同組合新聞 JACOM
   

特集  食と農を結ぶ活力あるJAづくりと女性達の役割


インタビュー(2)

吉武さん×山田さん

女性が元気に生きるために
おだてには乗ってみる人との出会いが新たな自分発見に

◆走り続けた20代

やまだ・くにこ
やまだ・くにこ
昭和35年東京都生まれ。昭和56年5月、TBSドラマ「野々村病院物語」でデビュー。以後、司会・ドラマ・講演・執筆等の分野にマルチぶりを発揮し、平成元年から8年までNHK“好きなタレント”調査では8年連続第1位を記録。著書に「邦子の『しあわせ』哲学」「BOOK『パーフェクト・H』」「オバサン・レディ」など多数。今年2月6日〜23日、名古屋・名鉄ホールで座長公演『おためし遊ばせ〜主婦の反乱〜』上演。

 吉武 邦子ちゃんはどういう経緯でメディアの仕事をするようになったの?

 山田 学生時代に落語やものまねなどいろんなスタンドアップコメディを趣味でやってたんですが、イベントの飛び入りやアルバイトでテレビに出るようにもなってました。サリーちゃんや「ピンキーとキラーズ」のものまねとかですね。あるときそれを見たNHKから電話があって、素人の集まる番組をつくるので出ませんかと。「昼のプレゼント」という番組でしたがチャンピオンになったんです。

 吉武 幸せねぇ(笑)。

 山田 当時、女子大生でヘンなことやる人がいなかったんです。そのあと、TBSのプロデューサーから電話がかかってきて、4月から看護婦さんのドラマが始まるのでそれに出ないかと言われた。今度は女優? とびっくりしっちゃって(笑)。就職が決まってたのにこの話をお受けすることにしたんです。
 ドラマに出演していると、今度はレコードを出さないかと。それがバスガイドの歌です。
 バスガイドのネタは、実はお年寄りから子どもまでみんなが分かるネタを作らないとだめだと言われたことがきっかけで。これが有線放送大賞新人賞にもなり、そうこうするうちに、当時、バラエティ界では大人気になった、ビートたけしさん、さんまさん、紳助さんたちも出演してた「オレたちひょうきん族」に出ることになって、そこからお笑い街道へ、と。

 吉武 大ばく進ね。マルチタレントのはしりなんだ!!

 山田 何でも屋ですね。歌も歌う、芝居にも出る、ネタもやるし司会もやると。要求されることがものすごく多くて宿題が毎日毎日、どっさりでした。でもそれが楽しくて寝る時間はホントに少なかったんですが、ワクワクしてました。

◆1年生に戻った40歳

吉武輝子さん
吉武輝子さん

 吉武 80年から90年まで駆け抜けたという感じかしら?

 山田 次から次へと、あれもこれもと話が来ましたね。それから20年近くが過ぎて40歳前になった。もうやり尽くしたかな、ありとあらゆることをやったなあと思いましてね。それが1999年。で、次はもう2000年だ、時代は変わるぞぉ、と思ったとき、ちょうど今の主人が横にいましたので、『もらってくれるぅ?』 と言ったら、にやぁ〜と笑った(笑)。2000年の元旦に結婚しました。

 吉武 立派に続いてるのよね!!

 山田 まだ丸6年ですよ。

 吉武 3年過ぎればこっちのもんよ。

 山田 ハハハ。それで結婚を機にこれまでやってなかったことをと思って、座長公演というお芝居の分野に足を踏み入れました。
 幕が開くとお客さんが声を掛けてくれる、それも変なところで話かけてきたりする。ハプニングの連続なんですね。座員が凍りついてても座長は何とかしなければならない。お客さんにはリピーターが多いので話の筋に加わって声をかけてくる方もいるんです。それを無視するわけにもいかずお客さんとのやりとりで即興で筋をつくってしまう。お客さんにいろいろなことを気づかされました。

 吉武 テレビではそれが見えなかったということ?。

 山田 チケットを買って実際に観に来てくれているんだと身にしみて感じると、それまでのことが走馬灯のように浮かんで来て、生んで育ててくれた親、兄弟、家族、学校、それから下町という地域、いろいろなことに40歳で感謝しました。

 吉武 舞台をやるようになって、人間というのは1人じゃなくて、生きるために知らぬ間にいろいろな人が支えてくれているんだということが分かった、と。

 山田 もうやり尽くした、なんて思うのは甘かったです。それから神楽坂合唱団にも入り吉武さんとも出会えたし、三味線もはじめるようにもなりました。
 自分と全然違う人たちに会うと、ショックというか、リフレッシュして自分はまだまだ何も知らないんだな、と思いますね。考えてみると、芝居に取り組むことで、私は一年生に戻ったんです。

 吉武 人生長くなると、やはりときどき一年生に戻る機会というのを作っていかないと、そこから先の人生が先細りになっていくと思いますね。

 山田 そうですね。私はテレビの時代にぽっと出た素人でしたから。だけど、合唱団に入れば先生がいる、三味線にはお師匠さんがいる、と初めて先生のような人たちに会った。これもうれしいことでしたね。

 吉武 お師匠さんたちというのはその道を究めている人たちだから、その人たちに触れていくとまた人間の層が厚くなって違う人生が開けていくということでしょうね。

 山田 財産だと思ってます。財産といってもお金ではなくて、今は健康と人だと思いますね。どれだけの人に会えて、どれだけ元気でいられるか、です。

◆固有名詞で生きよう

 吉武 私はもう一度若い時代に戻してあげますよ、と言われたら、50ですね。

 山田 50歳!? ああ、私もうすぐだ。

 吉武 20代なんかとても嫌。50!。それはある種の役割から解き放たれて、輝子、という固有名詞を持った個人として、肩の力が抜けるから。

 山田 楽しみです、50歳になるのが。

 吉武 70歳になってごらんなさい、もっと楽しいから(笑)。私は63で俳句、69で歌手デビューしたのよ。
 60歳までは気がつかないけれど、男も女も役割を気にして生きている。男は現役で働いているし、女はお母さんとか、ね。それが60歳になってしまうと、子どもは巣立ってしまうし、男の人は定年を迎えるでしょう。そうすると、役割人間ではなく、固有名詞をもった個人、人間になるのよ。
 昔は本当に男は家庭を振り捨てて働く、女は社会を振り捨て家族と子どものために全力を尽くす、という時代。私の父親は戦前育ちでまさにサラリーマンの優等生だったから定年後の58歳で鬱病になって自ら命を絶ってしまった。母親は責任を感じて病んでしまうし、どんなことがあっても自分で命を絶つというのは家族が傷つきますね。それと能力や個性も無視して強制的に男、女と分けてたから、簡単に赤紙一枚で戦場に引っ張っていけたんだとも思いました。
 もう40年以上も前のことだけど、そのときから男も女も生き方を変えて、そういう社会が押しつけてきた役割ではなく、家庭も社会も地域もお互いに分け持って生きていこう、個人として伸びやかに生きていこうということでなければ次の世代が生きにくくなってしまうと思ったのね。

 山田 それは未だに大事な話ですよね。

 吉武 私も共働きの家庭だったから、必死になって母親としても優等生になろうと生きてたし、女のくせになんていわれないように自己規制したり。だから気がつかないうちに持って生まれた個別的な能力、才能の在庫品がどっさり。長寿時代は在庫品に巡り会ってそれを花と開かせながら生きられるわけだから、長く生きられるというのは、とても得な時代なのよ。

 山田 先輩が素敵なレールを敷いてくれることによって、後輩の私たちがどんどん生きやすい時代になりますよね。

 吉武 私が69歳で歌手デビューなんて言うと、どうやって在庫品と巡り会えるの? って聞かれるけど、そのときは一言、人のおだてには乗ってみる、です。

 山田 うーん、なるほど。

 吉武 でも、おだてに乗るというのは、結構、柔らかい心と柔らかい耳がないとだめ。おしゃれがそうでしょう。ワタシ黒しか似合わない、という人いますよね。でも赤が似合うよって言われたら、着てみればちゃんと鏡が『似合うわよぉ〜』って言うのよ(笑)。おしゃれなんて人のおだてに乗らないと楽しめない。神楽坂合唱団も小林カツ代さんが、吉武さんは朗々たる声を出すからアルトで門戸がはれるわよ、っておだててくれた。それにホイと乗ったのよ。

◆自分が楽しく、が基本

 山田 みんなでよくなっていくということですね。けなしたりしてもよくなっていくことなんてないですものね。
 私も三味線はぜんぜんうまくないですが、すごくほめられます。それでどんどん稽古をしてしまって、とうとう昨年は三味線のコンサートができたんです。それから三味線を習ってることが伝わって、NHK教育テレビが『いろはに邦楽』という番組をつくってくれたんですね。三味線以外にも、尺八、琴、琵琶などをやるんですが、この番組ももう5年目になります。ですから、ひとつのことを始めたらまた別のいいことにも巡り会っていく。

 吉武 やはりね、悪口とか、けなしは人間が貧乏になる。それから才能も貧乏になりますね。だから60過ぎたら金持ちより、人持ち。

 山田 お金持ちでもあり人持ちでもある、がいちばんいい(笑)。

 吉武 そうやって場を盛り上げるのが邦子ちゃんのサービス精神。

 山田 そうか、サービス精神なのかな。自分では気がついてませんでしたが。

 吉武 そのサービス精神というのも、他人にサービスしているんじゃなくて自分にサービスしているのね。自分が楽しく生きたいから、やはり人を楽しませなければ自分が楽しくないじゃない。

◆押しつけの役割ではなく

 山田 私たちは夫婦はお米が大好きで、朝ごはんはなるべく一緒に食べるようにしています。夜は別々になってしまうことが多いですからね。昼はおにぎりをつくって持たせるようにしています。主人は製作会社でプロデューサーをやってますから、みんなにお弁当は配っても自分は席に座って食事しているような立場じゃないんですね。だけどポケットにおにぎりが入っていれば、お腹空いたときにぱぱっと食べれば何とかなるでしょう。それだけは持たせるようにしています。
 長続きしているご夫婦に、秘訣はなんですかと聞くと、だいたいみなさん「我慢」といわれますね。そうなんでしょうか。

 吉武 我慢というより、私の場合は仕事することに対して束縛しない、この一点さえ守ってくれればいいということでした。
 実は私は80歳で20歳の男性と結婚するのが夢だったの(笑)。女光源氏ですよ。20歳の男の子が私と一緒に暮らすなかで、女ってのは馬鹿にしてはいけない、なかなか崇高な生き物である、ということを分からせていく。でも、私のほうが早く逝くでしょう、で、その男が若い女性と結婚したとき女性に対して尊敬の念を持って接することができる素敵な男に育てたい、というのがずっと夢だったの。

 山田 でもよくそういう話は財産目当てではないかとも言われませんかねぇ。

 吉武 財産目当てであってもいいのよ。逆にそういうことができるのは、女の人が80歳でも自分で働いて地位や財産を持つことができるようになったから。

 山田 なるほど、今日はむしろ私のほうが経験していない時代の話も含めて、いろいろ聞かせていただきました。もっともっと聞いておかなければならないと思いましたね。

インタビューを終えて
 山田邦子さんとは、料理研究家の小林カツ代さんが団長を勤める神楽坂女性合唱団のお仲間である。人柄の良さ、頭のキレのよさ、そしてさりげなく人を喜ばせ、元気付ける気配りという名のサービス精神にぐいぐいと惹かれていった。
 インタビューをさせていただいたおかげで、また新たなる魅力を発見した。人の言葉に耳を傾けることのできる柔らかい心と他人の存在のありがたみを知る成熟した大人の感覚が、聞くものに生きてあることの喜ばしさをわきたたせてくれる。
 夫の後藤さんも穏やかなふかみのあるお人柄である。その上なかなかの二枚目。戦前と違って、妻の才能を開花させることのできる懐の深い男性が増えてきたことの喜ばしさがお二人を見ているとしみじみと感じられる。女が働いて生きることのすばらしさを再確認させられたひと時だった。(吉武)

(2007.1.25)


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