農業協同組合新聞 JACOM
   

特集 「食と農を結ぶ活力あるJAづくりのために2008」


提言

「日本農業の基本戦略を考える」

東京大学大学院経済学研究科 神野直彦


◆「ふるさと」存続への戦い

神野直彦
じんの・なおひこ
昭和21年生まれ。昭和44年東京大学経済学部卒業。日産自動車を経て、東京大学大学院経済学部研究科博士課程修了。大阪市立大学助教授、東京大学助教授を経て、現在、同大経済学部・大学院経済研究科教授。主な著書に『「希望の島」への改革―分権型社会を作る―』(NHKブックス)、『二兎を得る経済学―景気回復と財政再建』(講談社)など

 過ぎ去った1年を振り返ってみると、国民が「ふるさと」という言葉に敏感に反応した1年だったと回顧することができる。その象徴は「ふるさと納税」である。
 このように国民が「ふるさと」という言葉に、敏感に反応した背景を、内閣府の社会意識調査から判断すれば、地域間格差と環境問題への関心の高まりがあると考えられる。内閣府の社会意識調査によると、この2年間で地域問題格差と環境が悪化していると指摘する国民が激増しているからである。
 もっとも、ヨーロッパとりわけスカンジナビア諸国においても、「ふるさと」存続への戦いが展開されている。しかし、日本では「ふるさと」は、あくまでも「遠くにありて想うもの」だと考えられている。「ふるさと納税」の発想も「ふるさとは遠くにありて想うもの」であり、これからも「ふるさと」が見捨てられることが前提となっている。
 ところが、ヨーロッパの「ふるさと」存続の戦いは、あくまでも「ふるさと」を見捨てない運動である。つまり、「ふるさとは近くにありて守るもの」であり、「ふるさとは近くにありて愛するもの」だということが前提になっている。
 こうした「ふるさと」に対するスタンスの相違は、農業に対するスタンスの相違だといってもよい。地域再生のシナリオの基軸に農業を位置づけるヨーロッパと、依然として工業誘致を地域再生の基軸とする日本との相違だと考えられるからである。
 スウェーデンの環境教科書『視点をかえて』(新評論)では、「雇用の創出」という言葉に踊らされることなく、「景観として文化的価値を持った農耕地」を放棄することを拒否しようと訴えている。というのも、「雇用の創出」は一時的なものにすぎず、そのために喪失する価値は余りにも大きいからである。
 持続可能な地域社会(sustainable community)を目指すヨーロッパの「ふるさと」存続への運動の合い言葉は、環境と文化にある。つまり、工業によって破壊された環境を取り戻し、工業社会が成立する前に存在した文化を復興させることによって、地域社会を再生させようとしている。
 それは工業社会からポスト工業社会へという移行に対応して、工業を基盤にした地域社会を超克する地域社会を形成しようとしているからである。しかも、持続可能にしなければならないのは、生命だという真理が明確に位置づけられている。日本では持続可能性といえば、財政の持続可能性とか、年金などの制度の持続可能性のみに眼を向け、持続可能にしなければならないのは生命だという真理が見失われている。

◆「生命の産業」としての農業

 持続可能にしなければならないことは、生命であり、人間の生活だと認識されれば、ポスト工業社会は工業によって荒廃した自然環境を活性化することに基礎づけられる必要がある。というよりも、いつの時代にも地域社会には、人間の生活を可能にする固有の自然資源が存在してきたと考えなければならない。
 こうした地域社会に固有な自然資源を最適に活用するように、地域社会には固有の生活様式が形成されてきた。地域社会の自然環境に適合するように形成されてきた生活様式を、文化と呼んでいる。工業社会は大量生産と大量消費によって著しい欠乏を克服したけれども、地域社会に固有の生活様式を破壊し、逆に地域社会に固有な自然資源を枯渇させてしまう危機が生じている。
 こうして行き詰まり始めた工業社会を克服する地域社会の再生のシナリオを描こうとすれば、自然環境と文化を合言葉に、人間の生命と生活を持続可能にする地域社会の形成が目指されることになる。そうなると、ポスト工業社会では農業の再生が基本戦略とならざるをえないのである。
 農業とは「生命の産業」である。「生きた自然」を原材料とする産業が農業である。というよりも、農業では自然が生命を育む過程に合わせて栽培することが生産過程となる。
 農業の生産過程がすべて生命に包摂されているのに対して、工業とは「死んだ自然」を原材料とする産業である。しかも、「生きた自然」の生命活動を通して実施される農業の生産過程と比較して、工業の生産過程とは「生きた自然」の生命活動から解放された機械的生産過程となる。
 それ故に工業は、市場によって処理可能となる。工業の機械的生産過程では時々刻々と変化する市場の価格に合わせて、生産を調節することが可能だからである。ところが、「生きた自然」の生命活動が生産過程を支配する農業は、市場で処理することが不可能となる。大地が生命を育むリズムに合わせて生産せざるをえないからである。
 ところが、工業社会では農業を工業化しようとした。農業も市場で処理しようとしたからである。
 大地に化学肥料どころか、コンクリートをも投資して、農産物の大量生産を図ろうとした。大量生産される農産物は冷凍化され、鮮度を問うことなく、画一的に大量消費されなければならない。そのため規格化されたメニューを消費する生活様式が、広告媒体の大量動員によって強制されていく。
 しかし、工業社会は行き詰まり始めた。それは生命ある自然が消失する危機が生じ始めたからである。そればかりではない。人間と人間との絆をも弱め始めたからである。
 
◆農業を泉とする知識社会

 市場によって媒介される工業社会では、産業に生産量の増大としての成長が目指される。生産量が増大しなければ、雇用も増大することがなく、生活も持続しないと考えられるからである。ところが、極貧という欠乏が解決したにもかかわらず、市場が抑制の利かないまま膨張し始めると、生きた自然を破壊し、生産の過剰が、逆に貧困の過剰をももたらすようになる。
 というよりも、量を質に置き換えて、工業社会を克服して、知識社会というポスト工業社会を形成する歴史の「峠」に足を踏み入れたといってよい。工業社会では人間の筋肉系統の能力の代替物ともいうべき機械設備に、人間の筋肉系統の能力で働きかける。それに対して知識社会では、人間の神経系統の能力が駆使されることになる。
 知識社会の基礎は農業にある。経済とは人間の生命を維持するために、生きた自然に働きかけることにほかならない。知識社会でも人間の生活を維持するために、生きた自然を原材料とする農業を基礎とするしかない。実は、工業社会も農業を基礎としてしか成り立たない。大地に種を蒔くことは、人間生活の基本だといってもよい。それ故にヨーロッパでは「ふるさと」存続運動が展開されているといってよい。
 工業社会の行き詰まりは、農業の再生によって打開される必要がある。それは農業の工業化に終止符を打つことにほかならない。いいかえれば、農業を市場原理の呪文から解放することである。
 そもそも農業は市場原理という競争原理ではなく、共同体原理という協力原理で営まれなければならない。農業を営むとは、人間と自然との共同体と、人間と人間との共同体を形成することにあるといってもよい。
 人間と自然との共同体の形成とは、生きた自然の生命活動と協調して大地の恵みを享受することである。こうした協調関係を形成し、自然の豊かさを高めるために、知識が与えられる。もちろん、こうした協調関係は、地域社会の自然資源に合わせて形成される。
 人間と人間との共同体の形成とは、地域社会による文化つまり生活様式を発展させることにほかならない。地域社会の生活様式は地域社会の自然の育む農産物と不可分に結びついている。地域社会の生活様式を充実していければ、農産物は地域社会で流通していく。逆に地域社会の外に存在する過剰な豊かさが過剰な消費に走り、地域社会の構成員でないものが地域社会の自然資源を支配しない限り、地域社会の生活を充足するのに十分な自然資源が地域社会には存在する。
 農業を営む原理は、協力原理であり、分かち合う原理である。こうした分かち合いの原理で、知識は発展する。知識は分かち合わなければ発展することはない。分かち合わずに蓄える原理が意味を持つのは、腐敗することのない工業生産物を扱う工業社会だけだといってよい。
 農産物にしても知識にしても市場に乗せるとすれば、その市場は分かち合いの原理で規制されないと、効率性すら示さない。外国の地域で育つ、水分しか含まないような農産物を、大量の化石燃料を消費しながら、航空機で輸入することが、効率的たりえないことは明らかである。
 豊かさがトリクル・ダウンする、つまり御零れが滴れ落ちるというトリクル・ダウン効果(trickle-down-effect)の迷信に惑わされ、工業誘致に奔走しても地域社会は再生しない。既に工業社会には晩鐘が打ち鳴らされているからである。
 トリクル・ダウン効果を信ずることなく、大地から泉が溢れでるように、農業を再生させなければならない。大地から農業が泉の如くに再生するファウンテン効果(fountain effect)によって実現する人間と人間とが共生し、人間と自然との共生する社会こそ、目指すべきポスト工業社会なのである。

(2008.1.7)

社団法人 農協協会
 
〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町3-1-15 藤野ビル Tel. 03-3639-1121 Fax. 03-3639-1120 info@jacom.or.jp
Copyright ( C ) 2000-2004 Nokyokyokai All Rights Reserved. 当サイト上のすべてのコンテンツの無断転載を禁じます。