3月も終りの週に台北市を訪れた。市内は台湾の総統選挙の結果をめぐり、国民党を中心とした野党の大衆動員デモの最中だった。ほとんど毎日雨にたたられ、肌寒い天気だった。山場ともいうべき日曜日には50万人の動員といわれた。頭からすっぽり被れる透明の黄色いレインコートが飛ぶように売れていた。
フランスが作った地下鉄の中正記念堂駅がデモの集会場だった。国民党の事務所前で、デモ参加者へ弁当が配られていた。公園には公衆簡易トイレが50個以上も並べられ、楽しそうな家族連れもいて日本でいえばメーデーのよう。違うのは、街中をデモ行進する人は少なく、集会で演説を聞いてこぶしを突き上げ気勢を挙げるだけだった。警察が排除する様子もない。
知人との食事の席で、双方の言い分を聞いてみた。台湾独立をめざす与党陳水扁総統支持の某政府高官の意見::野党に陥落した国民党は彼らが過去に不正選挙を繰り返していたから、今回の選挙でも何か政府与党が汚い手を使ったのではないかと疑っているのだ。選挙では1票足りなくとも落選は落選だ。それが民主主義というものだ。台湾の総統選挙では3万票の大差がある。大衆デモを仕掛けて圧力をかけるとは、外国に対し恥ずかしい。野党の連戦総統候補も宋副総統候補もアメリカで教育を受けて、博士号を取得したが、台湾の民衆の気持ちは理解できない。50万人のデモというが、実際はせいぜい10万人だろう。
もう一人、72歳の本省人主婦の意見:台湾はオランダ、スペイン、フランス、日本(50年)、中国に支配されてきた。台湾独立という意味では悲哀を舐め尽くしている。2・28事件と言うのを台湾(本省)人は忘れない。植民地支配の日本が引き揚げた後に、中国大陸から国民党(外省人)
がやって来た。2月28日当時の学校、教会、行政など幹部に前触れもなく呼び出され、国民党に協力するよう圧力をかけられた、同意しないインテリ層は家に戻って来られなかった。牢獄に入れられたり処刑されたりした。国民党はその後38年間も戒厳令を強いて、台湾の人々を支配した。前回の選挙で、台湾独立をめざす本省人の陳水扁総統が当選して台湾にもようやく民主主義が実現できたのだ。
反対に、国民党など野党側の応援は外省人子孫30才台サラリーマン氏が代弁する:野党支持者は、台湾の資本家、軍人、警察、都市住民など現状に満足する人々である。選挙前の世論調査では、国民党など野党支持派は70%、与党台湾独立支持派は30%にすぎなかった。投票総数1300万票のうち、わずか3万票の微差で、敗れたのは納得できない。無効票が30万票もあり、前回選挙では無効票が10万余票だったことから開票に不正があったとしか思えない。選挙前日の銃弾事件は、同情票を目当ての陳水扁総統の自作自演の疑いがある。ズボンのポケットから銃弾が1個出てきた。最初から自分で持っていたのかもしれない。撃たれた後、近くの国立病院に行かずに、わざわざ遠い熱烈支持者の経営する病院へ駆け込んだのは計画的だったと疑われても仕方ない。さらに選挙当日、緊急事態宣言を発して、国民党など野党に投票する人が多い軍人や警察官など関係者を拘束し、選挙に行く時間を与えなかったこともある。少なくとも10万人の野党支持者が投票所へ行けなかった。もし通常の選挙なら、ゆうに逆転し野党が勝っている。
この時期、首都台北市発着の航空便は満席だった。総統選挙のために海外在住の台湾人が、味方応援のために続々と海外から台湾に帰国していたからである。2重国籍が認められており、投票権のある有権者は帰国した。特に上海には、台湾資本の工場群があり転勤族など100万人の台湾人が住み着き、その内5万人は帰国して投票したとも言われている。カナダからの一時帰国者にも遭遇した。
真相究明のために、票の数え直しを行うことでひとまず両者合意した。混乱が続けば中国が注視しており、一つの中国の大義で台湾へ侵攻しないとも限らない。アメリカが静かにそこを見守っている。現地紙は「中国が台湾に対して武器の使用を中止するのであれば、アジアの平和は100年維持されるだろう」との元日本外交官のコメントを紹介していた。知恵を出し合い、台湾が平和で安定することを望む。