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【金右衛門】
佐渡病院設立時の農協運動

拉致被害者で話題の人・曽我ひとみさんが、20数年前北朝鮮へ連行される時まで看護婦...

拉致被害者で話題の人・曽我ひとみさんが、20数年前北朝鮮へ連行される時まで看護婦として働いていたのが、医師数160、ベッド数700もある佐渡郡厚生連病院である。人口減少がつづく佐渡が島では大規模病院の経営が将来的に保証されなくなり、今年から一つ上の新潟県厚生連と合併した。民俗学の地元出身・田中圭一先生から佐渡病院設立時のいきさつと農協運動の話を聞いた。

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 佐渡に病院を作る直接のきっかけは、昭和7年第28回産業組合大会である。今の農協大会。スローガンに「医療の大衆化」という項目があった。出席した佐渡の2人の農協指導者が病院を作る大義名分としてこれを捉えたのです。大会があって決議したというだけでは、何も運動は起きてこない。
 何故、大会に出て「よしやろう」と考えるようなったのか。2人の指導者には子供を病気で亡くしたという共通の体験があり、さらに、厳しい社会背景があった。昭和恐慌といわれる不景気が到来していた。国立銀行が潰れる、日銀が血相変えてこれに取り組む、しかし、135の銀行が潰れた。預金者のお金はみんなぱーです。
 農村は、米の値段は暴落。外米がきて日本の米は売れなくなる。野菜も外国から来る、大豆もみな満州から来るという仕掛けになって、農村は立ち行かなくなった。政府を頼っていても農村の生活は良くならない。自力更生運動を農業団体は言い始めるようになる。
 その中で農村の医療の問題があった。医者は、文句なしに診察代金を取る。医療費の値引き交渉はできない。農村では医者へ行けない、医者へ行かない人が増えてきた。入院費も院内食費も高いのです。佐渡の場合には、その頃良い病院がなかった。重い病気はみんな船で他所へ運ばなければなりません。新潟なり、東京なり行きます。大変なお金です。
 明治41年にドイツで学んだ医者が、佐渡に病院を造れという論説を佐渡新聞に掲げていた。農協指導者はこのことも知っていました。全国の大会で医療の大衆化ということが日程に上ると、佐渡でもやろうという運動を立ち上げたのです。当時の健康保険は、本人以外はほとんど役に立たない制度であった。病院を造るという決議を佐渡の産業組合が昭和7年行う。協同組合運動家の賀川豊彦も病院設立を支援のため佐渡へ講演に2回も訪れている。
 ところが、昭和8年に佐渡郡医師会は産業組合が病院を作ることに疑問を呈するという文書を全戸に配布して反対した。新潟には医科大学があるが医者は出せないという決定をする。新潟大学を出たお医者さんが多くの個人病院を開業している。組合病院を作ったら、その者達が干しあがってしまうというのが理由であった。
 医者がいなければ病院はできない。農協指導者は、管轄の農林省に相談して事態の打開を要請した。農林省の役人が10回も20回も東京大学へ足を運んで、医者を依頼した。東大病院から佐渡へ医者を出す事になったのは、昭和10年の6月です。2年間という約束で任命された若い病院長と副院長は、任期が過ぎても東大病院へ帰らず、死ぬまで佐渡の農村医療に生涯を捧げることになった。
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 現在の日本の農村不況は、昭和恐慌に近い厳しい状態である。農村に自力更生の力があるだろうか。ロマンのある農協指導者や行政の支援体制が存在するだろうか。

(2004.06.09)