コラム

「正義派の農政論」

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【森島 賢】
原発事故にみる非科学と無責任

 福島の原発事故は、いまも放射能を垂れ流していて、日本だけでなく世界中から顰蹙をかっている。そして、まだ収拾の目途さえついていない。事故処理は数年間続くという専門家もいる。
 事故の原因は、想定外の大きさの地震とそれに伴う巨大津波だという。政治に責任はない、と言いたいのだろうが、それは、見苦しい言い逃れではないか。
 たしかに地震の規模はM9.0と大きかった。だが、世界をみると、最近50年の間に、それより大規模な地震があった。1960年のチリ地震はM9.5だったし、1964年のアラスカ地震はM9.2で、2004年のスマトラ島沖地震はM9.1だった。
 福島の原発は、このような規模の地震を想定外にして、危険を冒してきたことになる。その科学的な根拠は、いったい何だったのか。
 その上、巨大地震や巨大津波と事故は直接つながるものではない。その間には人為がある。この人為の中の原因に言及しないで、想定外の地震と津波を原因にすることは、人為に責任をもつ人のいうことではない。それは、責任逃れのための、無責任な言い訳でしかない。
 もしも、それに気づかなかった、と善意に解釈すれば、それは非科学的である。いずれにしても見苦しい。避難している多くの人たちや、現場で被爆による災害の危険を冒しながら、日本を守るという使命感に燃えて、懸命に事故処理をしている人たちは納得しないだろう。

 想定外の大きさの地震が原因だという認識なら、今後の対策は、50年でなく、100年、1000年に1度の地震を想定して、それに耐えられるようにするのだろうか。
 それとも、事故による放射能物質の拡散は止むをえないから我慢せよというのだろうか。それは死を我慢せよ、というのに等しい。
 もともと原子力の利用には無理があるのではないか。現在の科学では、原子力を制御できないのではないか。
 科学を盲信することほど非科学的なことはない。科学を疑うことこそ科学なのである。

 さらに、つけ加えたい。
 想定外だから結果に責任を負わない、というのは、純粋理論科学では許されるかもしれない。しかし、原子力利用という応用科学の分野では、何を想定するかが決定的に重要である。それが決まれば、あとはあらゆる分野の科学を応用すればよい。そして、その結果に責任を負う。
 これは、政治も同じである。政治は、社会科学を含むあらゆる科学を駆使して、その結果に責任を持たねばならない。
 それなのに、想定外などというのは論外である。政治家は自然に対して、また、社会に対してもっと謙虚でなければならない。

 同様なことが、遺伝子操作技術の利用にかかわる食の安全にもある。
 遺伝子組み換え食品、つまり、GM食品の推進派は、慎重派の論拠は非科学的だという。それは、2つある。
 1つは、GM食品の有害性については、数百の項目について毒性の検査をしているから安全だという。だが、それは現在の科学の水準で疑われる毒性の検査にすぎない。
 仮に300項目だとしよう。今後の科学の進歩で、必ず301番目の検査が必要になるだろう。そうでなければ、科学の進歩はない。そして、今までその検査を行わなかったために、事故が起こる可能性に曝されていたことを気づくに違いない。
 そのときに、科学者は、想定外といって責任を逃れようとするのだろうか。ことは生命にかかわっている。

 もう1つは、「実質的同等性」という論拠である。
 GM食品と非GM食品とでは、実質的に同等だから、毒性に差はない、というのである。ここにも問題がある。ここにも科学に対する盲信がある。それは、科学とはほど遠い。
 原子力利用にしてもGM食品にしても僅かな歴史しかない。科学はいまだにそれらを制御しきれていない。そのことを今度の原発事故が実証した。安全を確保する技術が歴史的な検証を経ていないのである。
 そうしたいま、目先きの経済性だけを考えて、危険性をないがしろにした浅はかな、そして傲慢な人知に対して、まさに天罰が下ったのだろう。
 被爆地は地震と津波の被災地と重なっている。失った物はカネで買えるという人がいる。だが、思い出のこもった物は買えない。そして、失った大切な人の命が再び帰ってくることはない。そうした苦悩の上に原発事故が起きたのである。


(前回 福島を新エネルギー革命の旗手に

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(2011.04.04)