コラム

吉武輝子のメッセージ JAの女性たちへ

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【吉武輝子】
戦争の出来る国にはさせない

 なんだかとっても、怖い時代になってきました。戦場ではもちろん、沖縄及び旧樺太の地上戦、東京大空襲をはじめとする主要都市の絨毯爆撃、そして長崎、広島の原爆投下と軍人よりも数多くの一般市民の犠牲の上で与えられた平和憲法。

 なんだかとっても、怖い時代になってきました。戦場ではもちろん、沖縄及び旧樺太の地上戦、東京大空襲をはじめとする主要都市の絨毯爆撃、そして長崎、広島の原爆投下と軍人よりも数多くの一般市民の犠牲の上で与えられた平和憲法。
 この平和憲法を変えて、この日本を戦争のできる国にしようというという動きが新党の誕生と共に濃厚になってきたのですもの。
 私たちが人生50年時代から100年時代の主役になったのは医学の進歩もさることながら、平和憲法のおかげで第二次世界大戦の遺児たちが殺しもしなければ、殺されもしないおかげなんですよね。アメリカでは朝鮮戦争にベトナム戦争にイラン戦争のおかげで、第二次世界戦争の遺児たちの戦死がいっぱい。だから日本のように長寿社会にはなり得ないんですよね。
 わたくしは人生100年時代の恩恵をたっぷり頂戴して生きているので、次世代には無傷で平和憲法を手渡したいとわたくしなりに反戦・護憲の運動に全力を挙げてきたのです。
 だけどわたくしは拳の見える運動はどうも性に合わない。文化的な表現法でひとりひとりを説得させていく、護憲・反戦の運動こそが、反動の歯車を止める力を持っていることを、地人会主催の「朗読劇 この子たちの夏」が見事に証明してくれましたもの。
 原爆で死んでいった我が子を思ういくつかの作文をつなげた朗読劇ですが、二度と同じ轍を踏ませないとの意志と祈りが、朗読劇に出演している女優さんの言葉の端々から迸っていて、わたくし原爆忌の前後には必ず劇場に出かけていったものでした。1985年から25年間続いたのです。
 この日本を戦争の出来る国にしようとの動きが濃厚になるにつれて、広島・長崎の原爆投下の悲劇が風化し始め、単なる過去の悲劇と受けとめる若い人たちが増えていることに気づかされるたびごとに、戦争そのものを人類の悲劇ととらえることの出来る大人が語り部になる義務があるとの思いが深まり、その役割を見事に果たしている「朗読劇」にどれだけ感謝したことでしょう。
 ところが何があったのか、突然、地人会が解散、「この子たちの夏」の公演権も奪われてしまったのです。
 さすが25年にわたって語り部としての役割を果たしてきたメンバーのみなさん。志縁で結ばれた18人の女優さんたちが、高田敏江さんを会長に「夏の会」を結成。
 やはり作文を構成した『朗読劇 夏の雲は忘れない』を誕生させたのです。
 高田敏江さんとは東映時代からのお付き合い。わたくしが東映の宣伝部にいたとき、19歳の高田さんがニューフェイスとして入ってきたのです。その後すぐに民芸の試験に合格。高田さんを知るにつけ、使い捨ての映画界ではなく舞台女優としての道があっているとの確信を持ち、ぐいと肩を押して民芸入りを実現させたのです。
 15年ばかり前でしたかしら。高田さんの友人主催の講演会に高田さんが来てくださり、以来反戦や護憲の集会に快く出てくださるようになったのです。
 だから『夏の会』がスタートしたときは嬉しくて、嬉しくて胸がどきどき。もちろん、初公演にはとんでいきましたよ。あちこちの友人に、「『夏の会』の公演に手を貸して欲しい。語り部は大人の義務よ」ってお願いして回っているのです。どうかJAの女性のみなさま。平和憲法を無傷で次世代に渡すために『夏の会』の応援団になって下さいな。

(2010.04.27)