特集

【第56回JA全国青年大会特集号】日本の明日を考える
座談会「日本の今を考える」
宇沢弘文 東京大学名誉教授
神野直彦 関西学院大学教授
田代洋一 大妻女子大学教授

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【座談会】「日本の今を考える」 宇沢弘文・神野直彦・田代洋一(後編)

・誘導された異常な世論
・刷り込みの原点は?
・国家は“家族のように”
・自然の資源の節約へ
・プルートは死の神
・リベラルな教育理念
・教育の目的は何か
・新しい産業の時代が・・・

 座談会の後半は、太陽エネルギーのような再生可能エネルギーの時代、知識集約型産業の時代がやってきたとし、自然と人間の営みの関係を再創造していくといった形で農業は復活するだろうと展望した。また福祉財源と消費税を短絡させる日本独特の異常な論理を批判し、税負担のあり方や所得再配分の問題も議論した。さらに市場原理主義批判では大学教育の目的を問い、カネもうけや出世のためではないとの原点を強調した。

 工業の論理を覆す
 産業が生まれつつある

 再生可能エネルギーを基盤にして


◆誘導された異常な世論

宇沢弘文 東京大学名誉教授 神野 私は例えば、財政を再建するとかいう時に、国民生活を支えるような公共サービスを出さないのであれば増税をする際には累進的な所得税、または法人税で増税せざるを得ないだろうと思います。
 一方、国民生活をコモンズ的な意図をこめて全体が分かち合って引き上げていくんだというのなら、お互いに負担し合うという税を使ってもよいと思います。この2つを両輪にしていく必要があるのではないかと考えます。
 国民の意識調査をみると、財政再建のための増税だったら応じるという人が15〜16%、ムダをカットしてくれるのなら応じるという人もかなりいます。
 つまりサービスを減らしてくれるか、変わらないのなら増税に応じるが、サービスを増やすのなら応じないという異常な世論が出てくるというのは、どこかで誘導され、扇動されている嫌いがあるとみています。
 これは「トリクルダウン」理論が富裕層のための減税、簡単にいえば税の負担構造を変えていくということに使われたからで、そもそもは経済成長を図りながらインフレを抑えていくというサッチャー的な思想から始まったと思います。
 彼女は税収が減らないように富裕層や企業利潤から貧困層へと租税負担をシフトさせることによって、成長とインフレ抑制ができるというような理屈を使ったのだと思います。
 今、重要なのはコモンズを再生させるという意味でも、コモンズが担ってきたような社会的な共通資本を支える税制度を形成していくことです。
 そのためには民主主義と、それを支える市民的な基盤をうまく機能させることです。でないと何のために自分たちが税金を負担し合っているのかわからなくなってくると思います。
 田代 単なる財政再建ということでなくコモンズの再生というか、そのための税負担のあり方を考えるという観点から、議論を立て直すべきだと捉えてよろしいですか。


◆刷り込みの原点は?

神野直彦 関西学院大学教授 財政再建というと消費税に短絡しちゃっていますが、消費税は逆進的です。しかし民主党からは所得税の累進性などについて余り政策が出てこなくて、財源論は消費税に傾いているという感じです。
 神野 民主党の政策には消費税と基礎年金を結び付けているところがありますが、社会保障負担と付加価値税を結び付けるというのは日本だけの議論なんですよ。ヨーロッパでは社会保障負担は所得税と統合すべきではないかという議論はありますが、付加価値税との統合なんていう議論はありません。
 日本で最初に付加価値税導入が進められた時、それを社会保障の財源にしようと政府の社会保障審議会がいい、一貫して主張したものだから、それが刷り込まれたのではないかと思います。民主党に限らず一般国民も社会保障の財源は付加価値税だと思っているでしょう。
 しかし日本のように消費税型付加価値税で社会保障財源をまかなっている国はほかにはありません。どことも支払い賃金にかかる部分を社会保障の税源にしています。
 田代 子ども手当についてウチの女子学生なんかも「もっと保育所を充実したほうがいいんじゃない」とも言いますし、「いや、手当てはユニバーサルなものとして、みんなに支給すべきだ」という声もありますが、財源は金持ちから取ればよいという声は余り聞こえてきません。
 神野 子ども手当をめぐっては「子どものいない私が、なぜよその子の養育費を負担しなくちゃいけないの」とか「子宝に恵まれない私が、なぜ恵まれた人の養育費を持つの」などという議論に対して「あなたがたの老後の年金は、やがてうちの子が負担することになるのよ」といった反論もあります。
 私の友人であるストックホルム大学の女性教員が、これらを聞いて「日本国民には連帯という意識がないのでしょうか」とびっくりしていました。


◆国家は“家族のように”

田代洋一 大妻女子大学教授 スウェーデンでは1932年に世界で始めて社会民主労働党政権が確立し、ハンソン首相が「国家は家族のように組織されなければならない」として「国民の家」というビジョンを打ち出します。
 どんな障害を負っていようと家族の一員は、家族のために貢献したいと願っているが、それを打ち砕くのが失業だから、失業問題を解消しなくてはいけないという発想です。当時は大恐慌の後で失業が大問題でした。
 これは宇沢先生のいうコモンズの思想に近く、分かち合うという農業を支えている論理でもあります。この論理が日本ではなくなってきているのですよ。個人々々での論理でやっているので、子どもを育てるのは家族の責任だということを前提に議論が進んでいます。
 宇沢 日本の農業の基本的な考え方を確立したのは弘法大師の空海なんです。8世紀に遣唐僧として唐に渡り、社会制度や水利工学などの技術も学び、帰国後、故郷の満濃池(灌漑用溜池)の大修復に当たりました。
 その技術は当時、世界最高の水利文明を持っていたスリランカの技術だといわれます。それが唐に伝わって空海はそれを学んだといいます。
 スリランカは年に2回モンスーンで雨が降るが、あとは降らない。しかも高地農業だった。そこで、降った雨水は一滴も無駄にしないで利用するというプリンシプルの下に、巨大な貯水池から小さな溜池にいたるまで全国に無数の灌漑用溜池のシステムをつくった。
 空海はスリランカのすぐれた水利工学の技術を学んで、気象、風土的条件が同じ讃岐の満濃池の大修復を総監督として成し遂げたのです。空海は古代日本の最高の土木工学者といわれています。
 また空海は満濃池の水の分け方や費用の分担の仕方などについても平等に運営されるように細かい規則を作りました。有名なのは“線香水”です。さらに女手だけの農家を集落で支援するルールも作り、コモンズについての業績を残しました。
 その後、開いた高野山には入山した人の財産はみんなの共有だという“総有制度”も今に残しています。これもコモンズの原点です。
 田代 話がそちらに入りましたので、次に農業・農村へのメッセージをお願いします。
 神野 農業の周辺に工業が生まれてきて、今度はその周辺に新しい知恵を使って、これまでの大量生産・大量消費という工業の論理を覆していくような産業が生まれつつあります。


◆自然の資源の節約へ

 知識は所有権をくっつけて取り引きするのではなく、お互いに惜しみなく与え合う農業の論理から出てくるというふうに思っています。
 そういうコモンズみたいなところで、いろんな自然の資源を節約していく知識社会の論理というか、農業を工業化する農業基本法のようなものでない知識集約的な論理が出てくるんじゃないかと思います。
 今の政策面からいえば民主党の模索から新しい芽が出ていないわけではありません。
 地域主権という戦略の中で、原口一博総務相は、太陽経済と緑の分権改革をいっています。
 これは地方分権を地方主権という言葉に置き換えた時に、国家と社会が分離していない日本のようなところでは理解しにくいのですが、国家ということと同時に社会というものが分離してあるということです。
 今まで日本では地方自治体と国家というように政府間の分権だけを考えていて、経済その他も全部、タコつぼ型の社会が中央にだけ開かれている状況になっています。
 これを打破しようというふうに政策を考えていって「トリクルダウンからファンテンへ」と向かおうと原口総務相ははっきりいっています。
 太陽のエネルギーが自然の地域ごとの顔になっていて、その顔に合った人間の生活様式を復活していくと、そこで新しい産業が生まれるはずだというのです。それぞれの地域ごとにかけがえのない自然の顔があるのをもう一度生かすような運動をしていこうというわけです。
 経済とエネルギーを考える場合、工業の論理ですと再生不能エネルギーというか、古代生物の屍を、祈りも捧げずに掘り出していたわけですよね。これには限界があり、枯渇する、価格が上がるということと、自然破壊という危険があります。
 原子力が次代のエネルギーになるかのごとく吹聴されていますが、過渡的には頼れても、これまでの教訓を学べば再生不能エネルギーはだめです。


◆プルートは死の神

 そもそもプルトニウムはプルートという冥界の神の名前が語源で祖先からの知恵で最悪の毒だという意味をこめてプルトニウムと呼ばれているわけですから、そんなものを使うと自然破壊が激しくなります。
 やはり自然の恵みである太陽エネルギーを葉緑素がつかまえてくれる緑のエネルギーか、あるいは太陽エネルギーのつくりだす空気の流れや水の流れをどのように生活様式の中で基盤にするかということです。
 次のエネルギーは再生可能エネルギーです。それに基づいた自然と人間の営みを描いていくことが未来になっていきます。知識を使って農業というか自然と人間の営みの関係を再創造していくという時代にきていますから、そういう形で農業は復活すると思います。
 田代 “太陽と知識”に基づく産業ということですね。その点について宇沢先生のコメントをお願いします。
 宇沢 社会的共通資本ということで大切なのは農業、自然環境、そして医療、教育があります。そこで最後に教育のことを話したいと思います。
 敗戦直後、私がいた旧制第一高等学校の本館は陸軍の師団司令部だったため、ある日、占領軍将校たちが接収にやってきました。それに対して校長だった哲学者の安部能成先生は「この一高はリベラルアーツのカレッジである。世俗的な目的には使わせない」ときっぱりおっしゃったため将校たちは黙って帰っていきました。
 それを見ていた私は感動しました。リベラルアーツは人類の遺産を吸収し、生徒の成長を図ると同時に、その遺産を次世代に伝える聖なる場であるから、占領というような世俗的なことには使わせないというのが先生の主張でした。教育を聖なる営みとし、占領・接収をそれに対比させたわけです。


◆リベラルな教育理念

 その後、占領軍は日本の教育制度改革に重点を置き、米国から教育調査団を呼びました。当時、文部大臣だった安部先生はその歓迎会で「戦争中に日本が犯した一番重い罪は被占領国の歴史や文化、教育を無視して日本の制度を押し付けたことだ。あなたがたは同じ罪を犯さないでほしい」とあいさつして調査団を感激させ、団長は壇上に飛び上がって阿部先生に握手を求めました。
 その団長は実は米国の哲学者であり教育学者であるジョン・デューイの弟子で、団員の中にもデューイの教えを受けた人が多かったのです。デューイには『民主主義と教育』という古典的名著があります。その中で教育の3原則を挙げています
 第1点は生まれも育ちも人種も違う子どもたちが同じ教室で遊び学んで同じ社会のメンバーであるということを心に刻み込むことです。第2点は誰でもが平等に教育を受けられること。第3点は子どもたちの個々に違った能力をそれぞれ生かすと同時にバランスのとれた社会のメンバーとして育てることです。 デューイの公教育の考え方は福沢諭吉の理念とある意味で通じており、諭吉のそれを、もっと哲学的な体系にまとめたものといえます。しかしデューイのリベラルな学校教育の理念はベトナム戦争中の米国社会の混乱の中で無視されていきます。
 デューイが基礎教育の理念を説いたのに対してシカゴ大学の同僚だったソースティン・ヴェブレンは大学の理念をつくり、『大学論』が有名です。
 ヴェブレンは、職業的な知識と技術、それから自由な好奇心という2つを育てるのが大学だとしました。


◆教育の目的は何か

 1点目については“職人気質(かたぎ)”を身につけることをいっているんですね。私はそう理解しています。学問や技術の研究にもまた一種の職人気質が必要ですよ。職人はそのプライドにかけて知識をフルに使い、腕を振るいます。
 要するにカネもうけや出世のために勉強するのではないというわけですが、それを市場原理主義のフリードマンがめちゃくちゃにしたのです。
 またヴェブレンは偉大な先達の知識を学ぶというリベラルアーツの目的や機能を強調しました。しかしパックスアメリカーナの政策は日本の歴史的風土的な条件を無視して米国式の市場原理主義的な改革を強行したわけです。それを批判し、反省しなくちゃいけないというムードが今でき上がってきています。 田代 本日はお二人に長い歴史をさかのぼりながら世界史の中での今日の位置づけをしていただきました。パックスブリタニカは工業の時代でした。工業によって農業をつぶしていく時代だったというわけです。
 第二次世界大戦後にはパックスアメリカーナの時代がきましたが、その出発点から新自由主義の考え方が入ってきて、ポスト冷戦体制下で本格化するなかで、今度は金融が農業をつぶしていく時代がやってきました。


◆新しい産業の時代が・・・

 その新自由主義も世界金融危機と「核のない世界」ということで終り、「チェンジ」ということで、新しい時代がやってきました。
 それは工業でもなく金融でもない太陽エネルギーというか、知識集約というか、そういうものを中心とした産業の時代がやってくるだろうと説かれました。その時代の中に、農業再生の可能性が見出されていくんじゃないかというご意見でした。
 話題は空海までさかのぼりましたが、空海はスリランカの溜池の水利技術を日本に導入して、溜池をつくりました。それは社会的共通資本というか、みんなのための施設であるということで、農業だけでなく、生活用水などにも使われる共通のものであると強調されました。
 新しい時代のあり方としてそのような協同というもいうものを取り戻していく必要があるし、社会共通資本としての教育のことも指摘されました。農業についても社会的共通資本としての農業ということの中で次の可能性を描かれました。大学教育についてはヴェブレンのいうように職人気質や自由な好奇心を育てていくべきだと語られました。
 正にこれからの農業も、いってみれば職人気質で新鮮でおいしく安全なものを作っていかなくちゃならない、手を抜いてはいけませんということでした。 そして協同ということの中で自由な好奇心に基づいて新しい農業を模索していくことが1つ課題になってくるのかなと思います。

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(2010.02.26)