特集

地域におけるJA共済の役割 ―東日本大震災から1年を迎えて

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【地域におけるJA共済の役割】 東日本大震災と協同組合の「絆」

・被災した人のために少しでも役立ちたい
・「わざわざ見に来てくれてありがとう」
・30年満期という仕組みの素晴らしさを再確認
・人と人との絆を強める相互扶助の精神
・被災者だが笑顔で仕事をするJA職員
・協同の力の強さを再確認した

 59万2018件。これは今回の東日本大震災で被災され建物更生共済の共済金が支払われた件数だ(3月7日現在)。東電福島第一原発事故による放射能汚染でいまだに入ることができない地域もあるので、今後この件数はさらに増えることになる。
 これだけの件数をできるだけ短期間に損害査定し、迅速に共済金を支払うこともJA共済に課せられた使命だといえる。当然のことだが被災地のJAの職員の多くも被災者だ。避難所生活をしながら組合員を励まし、JA共済契約者の安否や被害状況の確認に走り回った多くの共済担当職員やLAがいたことを忘れてはならない。
 そしてJA共済連はこうした人たちを支援する意味を込めて、3月21日から10月23日までの約7カ月間、22班体制で、各県本部や全国本部から延べ2475名の職員を「広域損害査定員」として被災県に派遣した。派遣された多くの職員から、現地で感じたことやJA共済の果たした役割などの声が寄せられている。その一部を紹介しながら、JA共済によって結ばれたJA組合員や職員同士の「絆」について考えてみた。

「地域の復興は農協がつくる」という熱い思いを胸に


59万2018件
これは今回の東日本大震災で被災され建物更生共済の共済金が支払われた件数だ


◆被災した人のために少しでも役立ちたい

 JA共済連の各県本部や全国本部の職員が「広域査定員」として宮城県や福島県を中心とした被災県に派遣されたのは、3月21日からだが、そのピークは4月17日〜23日と5月1日〜7月29日(連続9週)の10週で、1班100名以上(最大163名)が派遣された。
 5月に宮城県の沿岸部のJAに派遣された秋田県本部の職員さんは現地に着いたときのことを「その光景は今まで見たことも無い悲惨な状況で、まさに絶句とはこのことを言うのだと感じました。震災より2カ月が経過してもなお続く遺体捜索、避難所暮らし……」と書いている。
東日本大震災と協同組合の「絆」 滋賀県本部から5月に福島県中通りのJAに派遣された職員さんは「ちょうど花桃やハナミズキの花が満開に咲く、地震・原発被害さえなければ本当に穏やかな春の風景でした。しかし、建物・道路に目をやれば損壊箇所が至る所にあり、屋根の多くにブルーシートで覆われた家屋や、土壁の外壁が大きく崩れた土蔵等」が見られたと春の風景の中に残された傷跡の深さを語っている。
 山口県本部から宮城県に派遣された職員さんは「仙台空港に降り立ったとき、そこには震災の爪あとがまざまざと残る現実が待っていた」。それを見たことで「被災された方のために、少しでもお役立ちしたい」という「相互扶助」の気持ちが「心の底から湧き上がってきた」という。そして「入会して10年以上経つが、ここまで強くJA共済の使命を感じたことはなかった」とも。


◆「わざわざ見に来てくれてありがとう」

 現地到着後は地元JAの職員やLAと被災者の家へ行き査定をすることになる。
 宮城県へ派遣された岐阜県本部の職員さんは「傾いている家もあれば被害の少ない家もある。いろいろな家がありましたが、その時の『わざわざ見に来てくれてありがとう』」という組合員さんの言葉が「心に響いた」。
 静岡県から宮城県へ派遣された職員さんは査定先で「感謝の言葉やお叱りの言葉をいろいろいただいた」が、なかでも印象に残ったのは「『JAの建更に加入していて本当に良かった』というありがたいお言葉でした。被災された方は、気分的に落ち込んでいるものだと思っていましたが、実際現地では復興に向かって皆が明るく前向きであることがわかった瞬間でした」と振り返る。そして「組合員・利用者の不安を少しでも軽減し、安心と満足を提供するのがJA共済の使命であるということを実感」したとも。


◆30年満期という仕組みの素晴らしさを再確認

 福島県に派遣された全国本部の職員さんは、70歳くらいの一人暮らしのおばあさんの家を査定した。「屋根や外壁の損傷も激しかったのですが、部屋に入ると更にショックを受けました。震災が起こった当時から時が止まっているようで、部屋のタンスやテレビは倒れ、壁は崩れ落ち、旦那さんやお孫さんの写真や年賀状などが散乱した状態でした。あまりにリアルな状況にとても心が痛んだことを覚えています」という。
 そして査定が終わった後、おばあさんはこう語ったという。「おじいちゃんが残してくれた最後の贈り物なのかなぁ…。共済金で家を建て直すことはできないけれども、再出発のための資金としてとてもありがたい、今日は本当にありがとう」。契約して29年目に発生したのが今回の大震災だった。
 この職員さんは「30年満期という建更の仕組みの素晴らしさを思い知らされました。建物が老朽化してきたら契約を続けるか悩むであろう短期の掛け捨て型の保険よりも、長く付き合えて満期を迎えることができるのはJA共済のメリットだと思うし、だからこそJAと組合員・利用者の絆も強固なものとなっている」と思ったという。


◆人と人との絆を強める相互扶助の精神

 こういう話もあるという。「私の家の被害はあまりないですよ。そりゃ少しはあるけど、生活できない事はない。もし私の家にお金を支払っていただけるとしたら、その分を被害のひどい家にまわしてもらえないですか」という人がいた。そういわれた職員さんはこれは文字通り「JA共済の理念」だと感じ、「確かに地震の被害は大きく広範囲に渡っているけれど、この理念を理解していただけている人がたくさんいる限り、必ず復興はできるし、JA共済の役割はもっと大きくなる」と確信したと報告している。
 京都県本部のの職員さんは福島県に派遣される前に地区担当しているJAに協力を依頼し「被災された契約者に対し、支援の気持ちを込めた『メッセージカード』を渡そうという取組みを行い、JA職員・組合員に約300枚のメッセージカードを作成」してもらい、「査定に伺った契約者へお渡しし、京都からの支援の気持を福島県の契約者へ伝えることができ」喜んでもらえたと報告している。
 そして、「共済金の支払いはもちろんですが、全国のJA職員・組合員の気持ちを被災された方々へ伝えることもJAグループの一員であるJA共済連の役割ではないか」と感じたとも。
 滋賀県本部の職員さんは滋賀に帰ってから、一斉推進事前研修会やLA会議などで現地の被害状況を紹介し、農家の人たちが大変なご苦労をしていることを話すと、出席しているJA職員やLAが一様に心配そうな顔をして真剣に聴いてくれたという。
 そしてあるJAでの一斉推進事前研修会では「何か私どもJAでお手伝いできることはないか? たとえば福島県産の野菜や果物を当JAの直売所で取扱いをさせていただくことで微力ながらではあるが支援にならないだろうか?」というお話まで出たという。まさに「JAの理念である相互扶助(たすけあい)の精神(こころ)にふれた出来事」だったと報告している。


◆被災者だが笑顔で仕事をするJA職員

 全国から派遣された人たちは地元のJA職員やLAと同行して被災された組合員・利用者のもとを訪ねるのだが、実はそのJA職員やLA自身が被災者で、避難所生活を余儀なくされている人が多い。
 山口県から派遣された職員さんは、宮城県の内陸部で、3月11日からほぼ1カ月後の4月7日の地震で再び大きな被害を受けた家を査定したが、同行していたJA職員から「2回目の地震で心が折れた人が多くいます」と教えられた後、「自分の家も再び大きな被害を受け、そして損害調査も振り出しに戻ってしまった。しかし、私たちを待っている多くの組合員さんがいるから、一日も早く訪問してあげたい」と力強く語ってくれた姿がいまでも忘れられないという。
東日本大震災と協同組合の「絆」 宮崎県本部から宮城県沿岸部に派遣された職員さんも最初は「私がお世話になった支所では、なぜか共済課を中心に皆さんとても笑顔で仕事をされていて、第一印象ではそれがとても不思議に感じ、職員の方には被害がなかったのか」と思った。しかし同行するLAから話を聞くと「実際は職員の方の多くが被害に遭われている。そのLAさんも、念願であった海の近くに家を建てたばかりで被災し、すべて流されてしまったという。しかしながら、地域の拠点として地元の方々が農協を頼って来られるので、職員が落ち込んではいられない。復興に向けて私たちが地域の元気を発信していきたいとの強い想いから、支所長をはじめとして職員全員が笑顔で仕事をしている」ということが分った。
 「自身が大きな被害に遭われたにもかかわらず、被害物件を1件1件回り、まるで自分のことのようにケガや損害の心配をするLAさんの姿はとても私に勇気を与えてくれました」。そして「『地域の復興は農協がつくる』。その強い想いを胸に、私もJAグループの一員として、被災地の一日も早い復興のために微力ながら一緒にがんばりたい」と結んだ。


◆協同の力の強さを再確認した

 東日本大震災はそれこそ多くの人命を奪うだけではなく、家も農業を営む水田や畑、施設や農業機械など文字通り「想定外」の大きな被害をおよぼした。まだ復旧・復興のめどがたったとは言い難い状況が被災地では続いている。そんななかで、ここにみられるように、確かに確実に確かめられたこともある。
 それは協同の力の強さ確かさだといえる。被災地域でのそれもあるが地域を超えて同じJAグループの一員として人と人の「絆」が確かめられ、この苦境を新たな出発への契機としなければならないという決意を多くのJAマンに抱かせたのではないだろうか。

(2012.03.22)