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コラム:正義派の農政論

【森島 賢】

2015.06.15 
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 「...村の貧乏な人達だけでなく...生活の楽な地主の方達も、一つになって、ふるって満州へ行ってもらいたいと思っとります」
 これは戦前、長野県大日向村の満州(中国東北部)移民を前進座が演じた劇中で、淺川武麿村長役の三代目中村翫右衛門が言ったセリフである。そのように、神谷慶治先生が雑誌 文藝春秋(1940年1月号)で書いている。先生は「私も...村長と同様に...机をたたきコップの水をこぼして叫びたい」とまで書いている。
 ここには、満州移民を貧農切り捨ての棄民政策にしてはならない、とする村長と先生の熱い思いが、煮えたぎっている。
 先生は、学生といっしょに、現地に10日ほど泊り込んで、この村を綿密に調査し、報告書を公刊した。その一部を文藝春秋で発表した。これは日本の農政に対する、先生の厳しい警告だった。

 70年以上も前の満州移民の話を持ち出したのは、懐旧の念にかられたからではない。小規模農家を邪魔者とみる農政が、いまもなお続いているからである。
 大日向村の人たちは、小規模農家を邪魔者扱いにし、棄てようとする満州移民はだめだと考え、村じゅうの智恵を集めた。
 結論は、小規模農家だけが満州へ行くのではなく、地主もいっしょに行く、という分村だった。村を2つに分けて、一方はそのまま残り、他方は満州へ行って、満州国大日向村を作った。
 しかし、国家権力を背景にした大きな流れのなかで、移民の悲劇を避けることは、できなかった。

 満州移民は、当時の国策だった。
 あのころの農村は、世界恐慌の荒波の中で、みんな苦吟していた。農村を更生するには、農業経営の規模拡大が欠かせない。そのためには移民して農家の数を減らすしかない。この考えのもとで、満州移民が国策になった。
 全国各地の農村で移民団が結成され、続々と中国東北部の各地へ渡っていった。

 移民たちは、中国東北部へ行き、現地で内地の数十倍の広い農地の上で、大規模農業を経営した。地主経営をする人もいた。
 それらの農地は、現地の農家から法外に安い地価で、強権的に買い取ったものである。奪ったという方が実態に近い。農地を奪われた農家は一か所に集められ、困窮した生活を強いられた。
 当然のことだが、彼らは激しく抵抗した。しかし、匪賊という汚名を着せられ、泣く子も黙る関東軍に鎮圧された。ソ連の南下を防ぐ役目の屯田兵、つまり、武装した農業移民もあった。
 「五族協和」「王道楽土」を建国の理念とする満州の実態は、このようなものだった。

 農業移民の総数は、24万3273人だった。やがて敗戦になり、それにともなって7万8500人が帰らぬ人となった。
 壮健な男たちは、シベリアへ送られ、酷寒のなかで苛烈な労働を強制された。その多くは、故郷を恋い焦がれながら、かの大地の土になった。
 また、親子がともに生き延びるため、親があどけない我が子を手放し、心優しい中国人に育ててもらうという悲劇が、あちこちで起きた。
 生き延びた人も、苦難の末にようやく帰国できた。

 農業問題は就業問題である。
 資本主義はたえず失業者を必要とする。失業圧力で賃金を安くして利潤を多くする。これは資本主義のDNAに組み込まれている、生まれながらの悪習である。農業の「過剰」就業は、ここに深く根ざしている。
 満州移民は、これを軍事力で解決しようとした。しかし、現地の人たちが受け入れるはずがない。
 農業の「過剰」就業問題は、移民で解決できる問題ではない。

 満州移民は、中国人だけでなく、日本人に対しても、筆舌に尽くせぬ、悲惨な犠牲を強いただけで終わった。それが、取り返しのつかぬ、痛恨の満州移民だった。
 その反省もなく、いまもなお、小規模農家を邪魔者とみて切り捨てる、という農政が、移民という形ではないが、形を変えて続いている。

 

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