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コラム:正義派の農政論

【森島 賢】

2016.05.30 
野党は小異を残して大同につけ一覧へ

 参院選での野党協力が、順調に進んでいるようだ。全ての1人区で統一候補を立てるらしい。これで1人区は、与野党の一騎打ちになり、参院選は白熱するだろう。野党の当選者は増えるに違いない。その分、与党の当選者は減るだろう。
 危機感をもった与党は、野党の選挙協力を非難している。政治理念が違う政党が協力しあうとは何事か、という非難である。つまり、民進党が、社会主義・共産主義を政治理念にする共産党と協力することへの誹謗中傷である。
 しかし、政治理念の違いは「小異」である。「大同」は、独裁的な与党に勝つことである。

 ネットでみると、「小異を捨てて大同につく」というのは誤訳で、もとになる中国の格言は「求大同、存小異」だそうだ。中国語の「存」は、「残す」とか「保つ」の意味で、「捨てる」という意味はない。
 ここでは、政治理念を、あえて小異と言おう。各野党は、それぞれの政治理念を捨てるのではなく、残しておいて、その上で、大同についたのである。
 大同とは、市場原理主義の政策を強め、その極致であるTPPを強引に批准しようとする与党に対して、立ちはだかることである。また、平和主義の憲法を捨てる安保法制に対して、廃止を迫ることである。
 この緊急な大義のまえでは、政治理念は小異にすぎない。そのように各野党が考えたのだろう。

 こうした大義のなかで、もしも野党どうしが政治理念を言い募っていたらどうなるか。政治理念の小異にこだわって選挙協力をしなかったらどうなるか。
 それでは与党の思う壷にはまってしまう。野党は、ますます弱くなる。現実の政治はどうなるか。
 もしも、そうなれば、現実の政治は与党による市場原理主義の政治が、さらに蔓延し、また、平和主義の憲法を蹂躙する政治が、まかり通ってしまう。野党は、そうなる現実の政治を見ようともしないで、政治理念の論争に耽る。そんな野党なら国民から見捨てられてしまうだろう。
 それではだめだ。現実に降りかかる火の粉は、みんなで協力して払い除けねばならぬ。だから大同についたのだろう。
 だからといって、小異の政治理念を捨てよ、と主張するわけではない。小異は後まわしにして残しておけばいい。「大同」を成就したときに、その時点であらためて考えればいい。

 政治家は、それぞれの政治理念を持っていて、その政治理念を実現するために、政治家を志したのだろう。だから、政治理念を捨てよ、ということは、政治家を止めよ、というに等しい。
 自分の政治理念にあくまでも固執する、という政治家もいる。主義に殉ずるという人もいる。しかし、そのような人は現実的な政治家ではない。現実を自分の政治理念に基づいて変革する、という現実的な政治家にはなれない。政治評論家にもなれないだろう。そんな評論は、聞きたくもない。

 現実の推移をみながら、現実的な「大同」を見つけ出す人こそ真の政治家だろう。
 「大同」を見つけ出す過程のなかで、また「大同」を実現し、つぎの「大同」を見つけ出す過程のなかで、自分の政治理念を進化させることもある。そうした政治家こそ真の政治家だろう。

 民進党も、共産党も、ともに経済的弱者のための政治を目指している。ここに「大同」の確固とした基礎がある。
 経済的弱者のための政治は、国民の大多数の要求である。政治家は、たえず国民の声に耳を傾け、国民の要求に応えねばならぬ。そうして、政治家は自分の政治理念を陶冶し、「大同」を見つけ出し、自分の政治理念の実現のために奮闘しなければならない。
(2016.05.30)

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