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父子三様の決断 真田父子2016年7月14日

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【童門 冬二(歴史作家)】

◆家康か三成か

 豊臣秀吉は慶長三(一五九八)年八月十八日に死ぬ。その直前にバタバタと政権組織が整備された。五大老と五奉行の職制が設けられた。民のための組織ではない。秀吉の
「幼い後継者秀頼のための守護組織」
 である。自分が死んだ後も、いま大坂城に勤める重臣たちが、秀頼にもかわらぬ忠誠心を示す誠意の実証職制だった。五大老は徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家らの、諸国有力大名のいわば均衡(バランス)組織だ。ご奉行は浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家らの実務派がメンバーだった。職制分担としては、五大老が政策合議機関、五奉行がその執行機関だといっていい。
 秀吉が死ぬと家康は毛利・上杉・宇喜多らの同僚に、
「秀吉公御生前の御奉仕でさぞかしお疲れでしょう。また領国での政務もいろいろ滞りが生じておられよう。この際御帰国なさって諸事を御整理下さい。大坂城のことはこの家康と前田殿におまかせ下さい」
 と言葉巧みに追っぱらってしまった。前田利家は秀吉の盟友で、秀吉から「秀頼の守り役」を公式に命ぜられているので、追うわけにはいかない。家康は大坂城西の丸に入って、まるで城主であるかのような専制政治をおこないはじめた。これに対し怒り狂ったのが石田三成をはじめとする故秀吉派だ。
「家康は故秀吉公への誓いを破って、自分が天下人になる気だ」と家康を疑い、攻撃しはじめた。
 そんな時に、
「会津に戻った上杉景勝が軍備を拡張し、反乱の準備をはじめている」という密告があった。家康はすぐ使者を送り「大坂城にきて秀頼公に弁明されよ」と伝えさせた。が上杉側は「長期の留守で領地が荒れたので整備しているだけだ」と木で鼻をくくったような返事がきた。家康は怒り「ただちに上杉を討伐する」と秀頼の許可を得て討伐軍を編成した。福島正則・黒田長政・細川忠興・山内一豊らが参加した。当時城内は家康派・三成派に分かれていたが、これらの大名はすべて家康派だった。家康が好きというよりも三成がきらいなのだ。
 真田昌幸・長男の信幸・次男の信繁の父子も参加した。これは秀吉から「真田一族は徳川家を補佐するように」と命ぜられていたからだ。しかしこの征伐軍は徳川軍ではない。豊臣軍だ。上杉の嫌疑も「秀頼公に対する謀反である」と認定されたからだ。したがって家康は「秀頼の代理としての司令官である」ということになる。
 軍が小山(栃木県)まできた時、山内一豊の妻が家康に急報を送ってきた。もちろん亭主の一豊にも送ったろうが、家康に送るところが心憎い。ヘソクリで亭主にみごとな馬を買った実績がある。みごとな"上げマン"なのだ。急報には、
「石田三成が反家康の軍をあげた・すでに家康方の伏見城を攻略している・会津へ向かった大名の家族はすべて城内に監禁している・これをこばんだ細川忠興様の奥様は自決された」
 と告げていた。激昂した細川や福島は、
「すぐ大坂に戻って三成を討ちましょう!」
 とイキまいた。が、家康は、
「どうされるかはおのおののお考えにおまかせする。とりあえず軍は解散する」と告げた。狡(ずる)。タヌキおやじだ。
 真田家は父子で協議した。
「どうする?」チェアマン(議長)になって父の昌幸がきく。まず信幸をみた。


◆それぞれの理由

(挿絵)大和坂  和可 「私は家康様に従います」
 信幸はそう答えた。信幸の妻は本多忠勝の娘だ。忠勝は"徳川四天王"のひとりだ。いつでも家康のためなら生命も捨てる忠誠心の持主だ。猛将でもある。そういう因縁で信幸も心の中はズッポリ家康色に染っている、とみられていた。
「わかった」昌幸はうなずき「信繁は?」と次男の顔を見た。(※信繁はふつう幸村といわれている)。信繁はためらわずに、
「石田殿にお味方いたします」と応じた。その後の通報で、三成の親友大谷刑部が三成に味方したとわかったからだ。信繁の妻は大谷の娘だ。昌幸はこの応答にもうなずいた。そして、
「それぞれの立場はわかる。だがおまえたちが私情で動くような育て方はしてこない。それぞれ心を固めた理由をいえ」といった。信幸はつぎのように自分の決断の理由をのべた。
・これからの天下(日本国)は平和に経営されると思う
・そうなると天下人(日本国の経営者)はそういう理想と能力の持主でなければならない
・見渡したところ、そういう人物は徳川様以外見当たらない
・なぜ徳川様を選ぶかといえば、秀吉公の朝鮮出兵の折、徳川様は家臣をひとりも朝鮮に送っていない
・本陣の肥前名護屋城に勤務はしたが、連れてきた家臣の大部分は後期高齢者だった。つまり実践の場ではほとんど役に立たない者ばかりだ
・このことは口には出さなくても、徳川殿が出兵に反対であることを示している
・その証拠に、秀吉公が亡くなるとすぐに徳川殿は、朝鮮にいる日本軍に停戦帰国を命じている。これは徳川殿が合戦をきらい、平和をのぞんでいることのあらわれだ。
「私自身と、真田の里の住民そしてこの国の民のためにも、徳川殿の天下をのぞみます」
 信幸はそうしめくくった。昌幸は大きくうなずいた。
「情に流されず、時の流れを正確に見通す信幸らしい。感心した。それでこそ真田家は安泰だなどとセコいことはいわぬ。信幸の家は信幸の家だ。りっぱに守り、子孫に残せ。わかった、思うとおりにせよ。信繁、おまえの理由は?」
「その前に父上はどうされるのですか」
「わしか? きまっておる。三成に味方する」
「やはり」
「うむ。ただし理由はほかのやつとはちがうぞ」
「どのようにちがいますか」
「三成は自分だけが秀吉公への本当の忠臣だと思っている。それを他人にも押しつける。だから人望がない。そのことは今度も信繁の嫁の父大谷殿が、懇々と三成を諭している。しかし三成はその諭しを本当に理解したかどうか疑問だ。つまりワカっちゃいるけど、そのとおり実行できない頑固さがある」
「で?」
「その頑固さに惚れたのだ。わしにはもう失なうものは何もない。三成に賭ける。信繁は?」
 信繁はちょっとためらったが、すぐこういった。
「私も次男ですから家をはじめ失う物は何もありません。理由は父上と大体同じです。強いていえば、孤立の道を敢えて選んだ石田殿への"人生意気に感ず"ということでしょうか」。父子三人のこもごもの決断であった。関ケ原合戦前夜のことである。
(挿絵)大和坂 和可

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