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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門 冬二(歴史作家)】

2016.09.12 
文官でも合戦に勝てる 松平信綱一覧へ

◆幕政の平和化を妨げる合戦派

 江戸時代初期の寛永年間は、徳川幕府にとって組織的にも政策的にも大転換が行われた時だ。一言でいえば、
「武官主導から文官主導」に代わった。将軍も大坂の陣の経験のある二代秀忠から、三代目の家光に代わり、家光に仕えるブレーンや幕僚たちも大きく変化した。簡単に言えば、全てではないが、その大宗が、
「合戦なんて知らないよ」という世代が進出した。その中でも老中(閣僚)の松平信綱は、文官の真価を示す頭の働きが良いので、"知恵伊豆"と呼ばれた。かれの官名が伊豆守だったからである。しかし、この文官主導の平和な幕政は必ずしもスムーズにいかなかった。まだまだ「合戦経験者」が日本の隅々まで存在し、いきなり文官主導の政治に切り換えても、すぐには乗れない連中が沢山いたからである。寛永十四(一六三七)年に、島原で農民一揆が起こった。松倉という所管大名の酷税政策が農民の反発を買い、負担に耐え切れなくなった農民たちが一揆を組んだのである。もちろん幕府に報告されたが、幕府の方では、
「たかが農民一揆だ」
 と軽く見て、その鎮圧には一万一千石の小大名である板倉重昌を派遣した。が、一揆は広がり、やがて関ケ原合戦や大坂の陣で潰された大名の浪人たちが参加し、しかも掲げるメッセージを、
「キリスト教のため」と、宗教的性格を前面に打ち出した。キリシタンは、
「将軍よりもデウス(神)を尊重する」という思想を持っていたから、これは幕府にとっては危険な考えであった。そこで、最初派遣した板倉という小大名を更迭し、新たに、
「もっと大物を派遣しなければだめだ」ということになった。当時の幕府老中には、合戦経験者が沢山いた。したがって、そういう元老的な大名が候補に上ったが、この時異論を唱えたのが松平信綱だった。信綱には思惑があった。それは、
「文官主導という方針を出したものの、徳川幕府内部は依然として合戦経験者がイニシアティブをとっている。こんなことでは、新しい上様(家光)の理念は全うできない。この際、思い切った手術が必要だ」と考えていた。そしてそれには、
「起こった天草の乱を鎮圧する総大将は、文官が赴くべきだ。合戦経験派(武官)からバカにされている文官にも、軍の指揮能力があり、そして合戦にも見事勝てるという実績を打ち立てれば、合戦経験派も少しは態度を改めるだろう」
 という考えである。そこで信綱は老中会議で、
「わたくしが参ります」と手を挙げた。古参の老中たちはびっくりした。信綱は現在の将軍家光のお気に入りだ。したがって迂闊な口は利けないが、なにしろ合戦経験がない。みんな顔を見合わせた。目と目で、
「大丈夫かな」という不安の念を交わした。信綱はニコニコ笑いながら、
「若者にいい修行をさせるとお思いになって、どうかお認めください。わたくしも、乱の何たるかをこの目でしっかりと見届けとうございます」とあくまでも謙虚に申し出でた。世渡りのうまい信綱は決して先輩たちの気を損ずるようなことはしない。いままでも遜(へりくだ)って、常に微笑を失わずに先輩たちを立ててきた。したがって、合戦経験者たちも信綱には好感を持っていた。次第に、
(やらせてみるのも面白い)という空気になって来た。しかし老中だけでこの重大事は決められない。結局家光の親裁を仰ぐことになった。家光は簡単に、
「行かせてやれ」と言った。


◆文官信綱の成功

(挿絵)大和坂 和可 家光自身も自分の政治理念を展開する上において、元老級の合戦経験者たちの言動が邪魔で仕方なかったからである。
(いつまでも、昔はよかったなどと言っていたのでは幕府政治は改まらない。組織的にも人事的にも処分する必要がある)と思っている。しかしなかなか実行は難しい。そこで信綱が密かに胸の中で考えているように、
(文官が合戦に勝利すれば、武官も澹黙するだろう)
 ということは、家光も考えていた。
 松平信綱は九州へ向けて旅立った。しかしこの報が天草にもたらされると、現在の総大将である板倉重昌がふくれた。自分をないがしろにしていると感じた。そこでかれは、寛永十五(一六三八)年に年が代るとその正月一日に、全軍に総攻撃を命じた。しかし従う九州の大名群たちは松平信綱が新しい総大将に任命されたことを知っている。容易に動かない。そのため全軍の統一が取れず、板倉重昌は当たって砕けろでついに戦死してしまった。その後に信綱が到着した。信綱は板倉の死を残念がった。そのため作戦は、
「当面は静観し、情報を集めることに重点を置く。何よりも敵の状況をしっかり把握したい」と宣言した。この方法が当たった。というのは、信綱軍が情報収集に時間を費やしている間に、天草の原城に籠った一揆軍は、次第に食料に不足を来し始めたからである。二か月ばかり経つと、ついに一揆軍は飢えに耐えられずに、特別に編成した隊で、包囲軍から食料を奪おうとした。信綱はこれを捕えさせ、その腹を割かせた。胃の中に何も食物は入っていなかった。信綱は、
「今こそ総攻撃の時期である」と感じた。そこで全軍に攻撃を命じた。原城に籠る一揆軍は約三万人といわれる。信綱は非情にも、
「一兵たりとも残すな」と命じた。何といっても、新総大将の松平信綱は、
「上様(家光)のお覚えが一番目出度い大名だ」
 という噂は全軍に流れている。九州の大名たちが、板倉に協力しなかったのは何といっても板倉の格が一万一千石という小大名だったからだ。しかも幕府では何のポストにも就いていない。ところが今度の信綱は、
「新将軍家光公の懐刀であり、その才覚が優れているので"知恵伊豆"と呼ばれている。どこまで出世するかわからない恐るべき人物だ」
 と、信綱が着任す前から噂が流れていた。したがって、九州の大名たちは、
「この際、大きな手柄を立てて松平殿に気に入ってもらい、上様への進言によってわれわれも領地を増やしてもらいたい」
 という欲心を持っていた。その意味でも信綱の総大将就任は、九州の大名たちを従わせるという心理作戦にも成功したのである。したがって、板倉の時とは違って攻撃軍の士気は高かった。わずか一日か二日で、原城の一揆軍は全滅した。つまり、
「合戦なんて知らないよ、という文官大名が、合戦経験者を圧倒して勝利した」のである。この信綱の奮戦によって、以後江戸城の空気はガラリと変わった。それまで合戦経験者たちが、仕事もなくぶらぶらしながら茶を飲んで、
「あの時の合戦にはおれはこういう功名を立てた」などという自慢話で日を送っていたのが、ピタリと止んだ。そういう連中は次第に江戸城内に居場所を失った。
 以後は、信綱たち"合戦なんて知らないよ"派が、刀や槍の代わりに知恵の限りを絞って、次々と政策を打ち出した。
 いずれにしても、合戦經驗のない文官の信綱が、思い切って、
「自ら戦闘の指揮を執ろう」と決断したことが、大きく時勢を変えたのである。

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