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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門 冬二(歴史作家)】

2017.04.16 
敗けて勝つ 徳川家康一覧へ

◆信玄、家康領に侵入

 桶狭間の合戦の当日(永禄三年五月)まだ松平元康と名乗っていた徳川家康は、織田信長の前線基地大高城にいた。今川義元の人質になっていた家康は、今川軍に組み込まれて大高城への兵糧入れを命ぜられていたからである。任務を果たした家康はそのまま大高城にいて、大将義元の合戦ぶりを固唾をのんで見守っていた。が、義元は信長に首をとられた。以後、家康は義元の子氏真に、
「父上の仇をおとりになるのならば協力しますが」と持ちかけた。ところが氏真は、首を横に振って、
「父を討たれた今川家に信長と戦うだけの余力がない。仇討ちは思いとまる」と気弱な返事をした。そこで家康は氏真を見限り、独立しようと故郷の岡崎城に戻った。そして、義元を討った信長に接近し軍事同盟を結んだ。信長はこのとき、
「わしは西へ行く。徳川殿は東へ行かれよ」と告げた。そこで家康は岡崎城をそのままにして、東の曳馬(現在の浜松市)に移動した。つまり信長との約束に従って東へ移ったのである。ところが、ぐんぐん頭角をあらわした織田信長を討つために、日本の保守的な大名たちが連合軍を組織した。その総司令官に武田信玄が着任した。信玄は、大軍を率いて京都に向かった。このとき南下して浜松近辺を通過した。家康にすれば、自分の敷地の庭先を通られるようなものだ。家康は怒った。そこで浜松城で軍議を開いた。
「打って出る」と言った。ところが重臣たちは、
「名将武田信玄に対抗しても、とても勝てません。静観しましょう」と告げた。浜松城には織田信長からの援兵三千人が来ていて、指揮官は佐久間信盛だった。しかし信長は佐久間に対して、
「たとえ武田信玄が浜松城のそばを通過してもそのまま見守れ。徳川殿はまだ若い。それに気が短い。打って出れば必ず大敗を喫する。決して浜松城から出さぬように心がけよ」と指示をしていた。そこで佐久間も浜松城の徳川家の重臣たちと声をそろえ、
「静観してください。主人の信長からもそう言いつかっております」と言った。が、家康は、
「徳川家を無事に保とうと思えば、おぬしたちの助言に従う。しかし自分の屋敷の庭をどかどかと歩かれて、そのまま見過ごすわけにはいかぬ。世間で、徳川は卑怯者だと言われる。たとえ名将信玄に刃向かって敗れても、わしは打って出る。信長殿もおそらく本心では、そう思われているに違いない」と言った。言い出したら聞かない。やむを得ず全軍家康に従って出陣することにした。
 そのころ、信玄軍は浜松の北方三方ヶ原に陣を置いて休憩していた。そこへ家康が向かってくるという報が届いた。信玄はにやりと笑った。そして、全軍に、
「鶴翼に陣を構えろ」と命令した。鶴翼の陣というのは、鶴が羽を広げたような隊形をとって、敵が突入してくるとこれを翼で囲むように全面包囲する作戦だ。待ち受ける武田軍は約二万五千、家康軍は一万に満たない。兵力からいっても劣勢だ。しかし家康は先頭に立って突入してきた。信玄軍はたちまち翼を狭め、徳川軍を包み込んだ。徳川軍はさんざんに打ち破られた。家康の命も危なくなった。

◆死を覚悟の決断が思わぬ噂に

 そこで家康の家臣の一人が、無理やり家康を馬に乗せその尻を槍でたたいた。馬は浜松城に戻る道を知っている。一散に走って城内へ無事に家康を届けた。しかし家康は悔しがって声を荒げる。
「どうしても信玄に仕返しをする。もう一度出兵する!」とわめく。が、周りの家臣たちが寄ってたかって家康を押さえ込み、
挿絵=大和坂  和可 「この際はどうかご忍耐を」と説得した。家康は不承不承床几に腰をおろし、力なくうなだれた。悔しくて仕方がない。この直後家康は画家を呼んで自分のしおたれた姿を絵に描かせた。家康が拳にあごを当てて、意気悄然としている有名な絵である。家康は折に触れこの絵を家臣に示して、
「この日の悔しさを忘れるな」と告げ続けた。言ってみれば〝リメンバー三方ヶ原〟だ。
 この報告が行くと信長はちっと舌を鳴らした。そして、
「あれほど佐久間に言ったのに、なぜ佐久間も徳川殿の出陣をとめなかったのだ」
 と不満を漏らした。しかし反面、
「徳川殿もなかなか勇気があるな。負けるとわかっていて出陣するとは頼もしい」
 と、脇にそっと漏らしている。
 武田軍は去った。しかし三河国(愛知県東部)に入ると同時に、持病の肺結核が重くなった。起きていられない。信玄はやむなく、「甲斐(山梨県)へ戻って、病気を治して再出陣する」と宣言した。が、信州(長野県)に入るとすぐ急死してしまった。
 このころから、中部地方一帯に噂が流れた。それは、
「徳川家康は偉い。負けることを承知で出陣した。武士の義を守ったのだ。すばらしい武将だ。徳川家康こそ、東海一の弓取りだ」
 という評判だった。家臣からこの噂を伝えられて家康はにこりと笑った。実を言えば、家康が武田軍に突入していったのも、こういう噂を期待したからである。あのとき、ただ浜松城に引きこもって、武田軍の通行をじっと見ていたら、おそらく逆な噂が立っただろう。つまり、
「徳川家康は卑怯者だ。自分の庭先をどかどかと武田軍に通られているのに、黙って見ている。勇気がない」
 と言われたに違いない。だからあのときの家康は、
「たとえ家臣たちがどんなに反対しても、わし一人でも武田信玄に立ち向かってやる」
 と悲壮な決意をしていたのである。同盟者織田信長の助言も聞かなかった。
「信長殿の助言に従えば、やはり同じ結果になる。わしは卑怯者になる」
 若き日の家康は、やはり理想に燃える武士だった。したがって、
「武士の面目は、恥をかかぬことだ。それは、卑怯な振る舞いをしないことだ。武士の面目を保つためには、たとえ負け戦であっても打って出るのが本当の武士なのだ」
 と考えていた。噂は別な方向にも飛んだ。それは、家康が信長と同盟を結んでいることは多くの人が知っていた。そのために、
「徳川家康は、織田信長を討ちに向かった武田信玄軍を、浜松で食いとめようとしたのだ。家康は、非常に義に厚い律儀な武士だ。この時代には珍しい」
 と、言われた。家康にすれば、本当は信長から、
「絶対に出陣しないでほしい」
 ととめられていたのだから、これはちょっと面映ゆい。その面映ゆさは信長も同じだった。かれは派遣した援兵の大将佐久間に、
「徳川殿がどんなに頑張っても、おまえは絶対に出陣をとめろ」
 と命じていたのだから、信長にしても、家康にそういう評判が立ったことに、ちょっと面食らった。苦笑せざるを得なかった。
 こういうように、今川家から独立した家康の初期は、とにもかくにも、
「武士の面目を立てよう。徳川家康は勇気ある武将なのだ」
 という評判を立てることに努力していた。その意味で、三方ヶ原の合戦の日の決断は、大いに成功したのである。

(挿絵)大和坂 和可

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