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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門 冬二(歴史作家)】

2017.05.21 
たとえ親不孝といわれても 今川氏真一覧へ

◆親の仇を討つより大事なことがある

(挿絵)大和坂 和可 今川氏真は、義元の息子だ。後継ぎだ。しかし父の義元は、有名な"桶狭間の合戦"で、織田信長の奇襲作戦に遭い殺されてしまった。この時氏真は、父親の遺体をそのままにして拠点である駿府(静岡市)に引き揚げた。父の遺体は、今川家には忠節を尽くす重臣の手によって運ばれてきた。この時重臣は、
「お館、当然義元さまの仇はお討ちになるでしょうな」
 と念を押すように言った。その時氏真は答えなかった。討つとも討たぬとも言わなかったのである。数日経って、松平元康から、
「父上の仇をお討ちになりますか。そうであれば、お味方します」
 と言って来た。元康は、竹千代と言った子供の時代から十二年間今川家の人質だった。桶狭間の合戦にも、今川家の一武将として参加し、今川方の拠点である大高城に兵糧を入れたりした。そのまま大高城に在城したので、合戦には参加していない。元康はもともとは岡崎城が拠点なので、敗戦後も駿府には戻って来ない。照会は岡崎城からである。この時は氏真ははっきり、
「父の仇は討たない。他にもっとやらなければならないことがある」
 と応じた。元康はこの氏真の返答を得ると、事もあろうに仇の織田信長と同盟を結んでしまった。そして、名も徳川家康と変えた。間もなく、
「岡崎城では、あなたが父君の仇をお討ちにならないので、臆病者とか親不孝とかしきりに噂をばら撒いておりますぞ」
 と、義元の遺体を運んできた重臣をはじめとして非難するように氏真を責めた。しかし氏真は、
「父の仇は討たない。そんなことをしても、あの信長に勝てるわけがない」
 と応じた。重臣たちは、
「父上の仇を討たずに、他にやることがあるというのはどういうことですか」
 と訊いた。氏真は、
「今の駿府は、東国にはない文化の町だ。商業も盛んだし、住民も幸せに暮らしている。これを保つことが子であるわしの責務だ」
 と言った。これは事実だった。父の義元は文化大名と言われ、都からしきりに文化人が訪ねて来た。また義元は商業を盛んにしたので、商人の地位が非常に高くなり、駿府の町は賑わいを重ねていた。だから氏真が、
「その状況を今後も保全したい」
 というのは一つの治政方針でもあった。同時にまた、氏真もその文化の匂いを十分嗅いで、その中にかなり埋没していたので自身の好みでもあった。氏真は、合戦で丁々やり合うような武人ではない。合戦の結果得た果実を十分に堪能できれば、それで満足するというタイプの大名だった。そして、
「それを保全して民に安心安定の暮しをさせることの方が、合戦よりももっと難しい」
 と考える、平和型の武将だったのである。だから彼が、
「父義元の仇を討つか討たないか」
 という二者選択に対し、
「父の仇を討つような武張ったことはしない」
 という決断を下したのは、かれの人生観でもあり、また政治理念の実行でもあった。

◆しかし現実はそうはいかない

 この頃、今川家は甲斐の武田信玄や、小田原の北条氏康といわゆる"三国同盟"を結んでいた。そのため、三者のうち誰かが異心を抱かなければ、三国は平穏を保てた。氏真はこの平穏を大事に保とうとしたのである。
 しかし、武田信玄は野心を持っていた。それは甲斐の国には海がない。そこで信玄はかねがね、
「甲斐の国も港を持ちたい」
 という悲願に近い望みを持っていたのだ。それには、海に面した領地を駿河国と遠江国の二国にまたがって持つ今川領に入り込むのが一番早い。その氏真は、聞くところによれば、松平元康からの誘いにも、重臣たちの願望にも応ぜず、
「父義元の仇は討たない」
 と決断したという。それにつけ込んだ松平元康改め徳川家康は、岡崎城から東方へ侵入しようとしている。侵入先の遠江での井伊谷というところを治める女城主井伊直虎も、
「その徳川家康と呼応して、今川家に背こうとしている」
 という噂がある。さらに、
「直虎は武田とも通じて、今川に背こうとしている」
 とも言われた。それを元にして、家康が駿府に残してきたかれの妻と長男も密かに、信玄に通じようとしているという噂まで流れて聞くる。情報通の信玄は、これらの噂を聞いてニヤリとした。つまり、
(これで、甲斐の国港が得られるかも知れない)
 と思ったからだ。つまり、かれは、
「駿河国や遠江国へ侵入しよう」
 という気持ちを固めたのである。そしてそれを実行する。駿河国は信玄によって侵略された。信玄はさらに西方に向かい、遠江国を荒らそうとした。が、この時は徳川家康も東方侵略を実行し始めたので、遠江国における港の確保(たとえば浜松)は未遂に終わった。
 こう見て来ると、氏真の、
「善意による決断」
 は、結局は善意ならざる決断の持ち主によって、踏みにじられてしまったことになる。氏真は信玄に攻め立てられて、駿府を捨て家臣の守る城に逃げて行く。こうなるとこういう決断は従って、
「周囲の情勢をよく見極める」
 ということが大事だ。特に信玄のように智謀に満ちた武将を相手にする場合には、
「相手がこちらの情報をどの位集めているか」
 という点に着目して、用意万端を整えないとえらいことになる。今川氏真の例は、
「善意だけでは世の中は動かない」
 といういい例だろう。
 武田信玄は「王道政治の実行者」だと言われる。戦国武将のほとんどが〝覇道〟の実践者だから、これは珍しい。王道政治というのは「民に愛をもって仁と徳の政治をおこなう」
ことだ。覇道というのは、
「自己権力の増強を狙って権謀術数を頻発する人間のやること」だ。
 前者は公利を追求し後者は私利を追求するということになる。
 信玄が治める甲斐国(山梨県)には海がない。塩をはじめ魚介類などの海産物が得られない。民にやさしい信玄は何としても確保したい。すぐ目に付くのが相模・駿河・遠江(神奈川県から静岡県)の海だ。
「甲斐国があの海を得られたら」
 いつもそう思う。奪いやすいのは駿河と遠江だ。領主の今川氏真が軟弱だからだ。(駿河と遠江を奪おう)信玄は決意した。この瞬間、王道政治家の信玄はたちまちにして覇道政治家に変身し、氏真は犠牲になった。
(挿絵)大和坂 和可

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