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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門 冬二(歴史作家)】

2017.12.10 
゛いも代官"と呼ばれた人 井戸平左衛門一覧へ

◆六十歳で代官に

 徳川幕府は、「徳川家の政府」であって、日本国民の政府ではない。徳川家も一大名だ。したがって、藩と呼ばれる各大名家とも、行政や財政は別立だった。江戸城にある幕府の中に「勘定所」というのがある。勘定奉行が責任者だ。これは、「徳川家の財政を管理する役所」である。徳川家には、「天領」と呼ばれる直轄地が日本全国に散在していた。この直轄領を管理するのが「代官」だ。しかし、その管理する直轄領は、何万石にものぼる。たとえば、九州の大分県日田にあった「日田代官所」の領域は、十五万石平均であり時には二十万石を超えたという。大名にすれば、中級大名に匹敵する。したがって、代官にはそれだけの能力が要求された。
 中には、今もテレビで全国を旅している水戸黄門(水戸藩主徳川光圀)の眼光に射竦まれて、その悪事を暴かれ供をする助さん格さんにぶっ飛ばされたり、叩き斬られたりする悪代官がいるが、すべての代官が悪事を働いていたわけではない。中には、善政を行なって住民たちから感謝され、後に顕彰碑を建てられた名代官も沢山いる。今回書く井戸平左衛門はその代表だ。農民たちに愛され゛いも代官゛と呼ばれた。
 井戸平左衛門は、寛文十一(一六七一)年に、幕府の御徒役野中重吉の長男として生まれた。しかし元禄五(一六九二)年二十一歳の時に、勘定役(現在の財務省の幹部)井戸正和の養子になった。すぐ養父が死んだのでその後を継いだ。最初は、表大番の番士に任命されが、元禄十五年九月に勘定役に昇進した。以後、平左衛門は勘定所に務めて真面目に職責を全うした。かれは、
「勘定所の模範的役人である」
 と言われ、三十年その役を務めた。享保十六(一七三一)年には、褒美の小判を二枚もらって表彰された。六十歳になっていた。平左衛門も、
「十分徳川家に尽くした。そろそろ隠居しよう」
 と考えて、そのことを上司の勘定奉行に申し出た。勘定奉行も、
「長年御苦労だった、これからは悠々自適して隠居生活を楽しめ」
 と応じたが、それがそうは行かなくなった。それは突然平左衛門に、
「大森代官を命ずる」という辞令が出たからである。平左衛門はびっくりした。六十歳にもなった老年で、いまさら遠い大森代官所(島根県の石見銀山を管理する役所)に赴くなどとは、夢にも思わなかった。しかし現在の代官が、悪事を働いて銀の増産を図ろうとしたために、住民の年貢負担を非常に重くした。怨んだ住民たちが、謀反を起こして代官所を襲い悪代官を殺してしまったのだそうだ。幕府首脳部は、
「功を急いで前代官は農民に殺されたが、これはやり方がまずかった。やはり代官所では、住民の模範になるような誠実で真面目な人物が相応しい」と定めた。その会議に列席していた江戸町奉行の大岡忠相が、
「後任には井戸平左衛門がよろしかろう」
 と進言した。大岡も人物だけに日頃から平左衛門の誠実な勤務ぶりを知っていたのである。この話を聞いて平左衛門は感動し、
「名奉行の大岡様が推薦してくださったのなら、断るわけにはいかない」
 と考えて、遠く島根の大森代官所に赴任した。享保十六年十月三日のことである。

 

◆飢民への決断

colu1712100101.jpg 赴任して驚いた。というのは、住民たちが沿道に群れを成して待ち構えていたからである。勿論平左衛門の評判を事前に聞いて、
「前の悪代官とはちがって、今度は立派な方がお代官様としておいでになる」という評判を立てていたのである。だから、出迎えた住民たちの眼は期待に輝いていた。老年になった平左衛門は、
「この人々の期待に応えることを、自分の最後の仕事として仕上げていこう」と決意した。彼は赴任した翌日から、領域内を積極的に歩き回った。草鞋履きで一戸一戸の住民の生活状態を見極めた。そして、
「この地域の人々は相当に貧しい」と感じた。そこでかれは持ってきた私財を全部投げ出し、同時に、領内に住む富む農家に、
「義援金を頼む」と言って募金をし、自分の金に合わせて他国から安い米や雑穀を買い入れた。そして、暮らしに困っている窮民たちに配給した。前代官の悪事は、必ずしも代官一人が行ったわけではない。代官所にも心を合わせた者がいた。しかし平左衛門はクビにすることなく、
「二度と行わないように。われわれは、住民の収める年貢で食っているのだから」と戒めた。こういう努力が、次第に住民たちに伝わり、
「やはり評判通りの名代官様だ」と言われるようになった。享保十七年に、「中国・西国の餓死者十万九千人」と記録されている大飢饉が襲った。大森代官所の管理下でも飢民が増えた。他の役人なら手を挙げて「どうしようもない」と泣き言を漏らすだろうが、平左衛門はそんなことはしなかった。かれは状況を見て決断した。それは、
「飢饉は広い範囲に亘って起っている。他国から食料を買うことはできない。その地域も困っているからだ」と考え、自分が預かっている代官所の米蔵に眼を着けた。かれは、
「独断でこれを開いて、窮民に分けよう」と決意したのである。もちろん幕府の米蔵を開くことは、幕府の許可がいる。しかし、江戸城の上司に許可を求めていたのでは、一か月も二か月もかかる。その間に、どんどん窮民が死んでゆく。そんなことはできない。平左衛門は自分の決断で、米蔵を開けるように部下に命令をした。部下はびっくりした。
「そんなことをしたら、とんでもないことになりますよ。お代官様が大変なお咎めを受けます」と心配した。しかし平左衛門は、
「承知の上だ。安心して開けなさい」と、にっこり笑いながら命令をした。この決断によって、大森代官所管内の人々は飢えを救われた。この嵐が吹き去った後、平左衛門は、
「米や麦だけに頼っていたのではこういう時に食糧が足りなくなる。代替食が必要だ」
 と考えた。丁度近くの寺に薩摩から来た遊行僧が滞在していた。平左衛門と気が合った。平左衛門が、
「米の替りになるような農産物がありませんか」と訊くと、その遊行僧は、
「ありますよ。薩摩では、芋を栽培して米の替りに食べています」と言った。平左衛門は目を輝かせ、
「お願いです。その芋の種をここに送ってはいただけませんか」と言った。遊行僧は承知した。やがて送られて来た種イモを、平左衛門は各村の長を呼んで配分した。栽培方法も遊行僧から聞いたことを教えた。芋はこの地方に根付いた。そして管内だけでなく、出雲・因幡・隠岐・長門・周防・備後などへにも広がって行った。しかし、無断で代官所の米蔵を開けた罪は、
「幕命に背く反逆行為である」とされて、平左衛門は代官をクビになり、幕府から「追って沙汰する」と言われた。すでに覚悟していた平左衛門は、追ってもたらされる沙汰を待たずに潔く切腹した。住民たちはその死を惜しんだ。現在でも、゛いも代官"と呼ばれたかれの顕彰碑が実に百数十もこの地方に建てられているという。それも幕末になって突然変異のようにあちこちで碑が建てられた。これはおそらく、幕末の大森代官が悪代官で、それを咎める意味もあって、住民たちが殊更に゛いも代官"の平左衛門を改めて顕彰し直したのだろうと伝えられている。

(挿絵)大和坂 和司

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