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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門冬二(歴史作家)】

2018.01.08 
武士道とは沈黙と心得る・石谷十蔵一覧へ

◆島原の乱鎮圧の人事の誤り

 寛永十四(一六三八)年に、九州の一角で大規模な一揆が起こった。しかし江戸城の幕府首脳部は、農民一揆だから大したことがないと判断して、鎮圧のために、一万石の大名板倉重昌を大将とし、千五百石の旗本石谷十蔵貞清を副大将として派遣した。この時大目付の柳生宗矩と大久保彦左衛門が反対した。それは、「動員された鎮圧軍は、すべて九州の大名です。かれらは、歴戦の勇士です。したがってその総大将は、しかるべき資格のある者でないということを聞かないでしょう。板倉殿はまだ一万石の小名で、実戦の経験もありません。九州の大名たちがいうことを聞かなければ、鎮圧はなかなかうまく行かないと思います。この際、大物を派遣すべきです」という意見だ。しかし幕府首脳部はこれを黙殺した。
 この懸念は当たった。九州で動員された大名たちは、いずれも猛者揃いだ。黒田・細川・島津・鍋島などという連中は、着任する総大将が一万石の大名板倉だと聞いて、みんな笑った。
「そんな小名に、われわれが服すると思うのか。江戸城の連中は目がない」と罵った。着任後の板倉は、そういう九州の大名たちの悪感情に振り回された。板倉は頭を抱えた。
 この頃江戸城では、知恵伊豆と呼ばれる松平伊豆守がこういう情報を集めて心配した。そして、
「板倉に代えて、大物を派遣しなければ鎮圧はできない」と判断した。それだけでなく、
「自分が鎮圧の大将に出陣する」と宣言した。みんな驚いた。
「何も松平殿が出陣することはない。あなたが江戸城からいなくなると、上様(将軍)が心配なされる。江戸城におられよ。代わりに、誰か出そう」と言った。が、松平は承知しなかった。かれには戦争経験がない。そのために合戦一途に生きて来た大名たちから軽く見られている。松平は腹の中でいきり立った。
「たとえ、合戦なんて知らない世代でも武名をあげることはできるぞ」と意気込んでいた。だから、今度の件は格好の好機なのである。松平は出陣した。これを聞いた現地の板倉はいきり立った。副将の十蔵に、
「来年の一月一日を総攻撃の期日とする」と宣言した。十蔵は、
「無謀です。やめた方が宜しい。新任の総大将の着任を待って、一緒に攻めたらどうですか」といった。しかし板倉は聞かない。
「是が非でも攻撃する」といって、言葉通り翌年(寛永十五年)の一月一日には、無謀にも一揆が籠る島原城に突入して行った。そして討ち死にしてしまう。この時十蔵も重傷を負う。後任として現地に着いた松平は、この報告を聞いて顔を曇らせた。
「遅かった。というのは、わしも責任がある。最初板倉殿の派遣に反対しなかったからな。申し訳ない」と十蔵に言った。十蔵は無言だった。しかし、松平は文官であるにも関わらず見事一揆を鎮圧した。十蔵は江戸に戻り、病が癒えても、
「乱鎮圧ができなかった責任がありますので」といって、自宅に引きこもった。

 

◆10年の沈黙後江戸町奉行に

武士道とは沈黙と心得る・石谷十蔵 その後十年ほど、十蔵は邸から一歩も外に出なかった。沈黙したまま自邸で謹慎していた。江戸城ではいろいろな噂が飛んだ。中には訪ねて来て、
「攻撃の真相を話してほしい」という者もいた。しかし十蔵は会わなかった。沈黙を守ったまま、謹慎生活を続けていた。かれは、
(今回の件は、明らかに幕府首脳部の間違いだ。はじめから大物を派遣していれば、板倉殿は死なずに済んだのだ。しかし、それを口にせず黙って従ったおれ自身も悪い。罪人だ。したがって、もう二度と職を得る望みを捨てて、このまま謹慎して朽ち果てるのだ)と考えていた。ところが、その十蔵に、慶安四(一六五一)年に、
「江戸町奉行を命ずる」という辞令が出た。島原の乱の失敗で、十蔵を咎める者もいたが、反対に、
「いや、石谷はそんな人間ではない。何か考えるところがあって沈黙しているのだ」と、庇う者も沢山いた。特に石谷は庶民に同情を持ち、人気があったのでそういう声が一種の世論となって、かれを町奉行にせよという声が起ったのである。幕府もこれは無視できなかった。十蔵は江戸町奉行に就任した。この時かれが真先に取り上げたのが、
「武士の失業者救済」である。かれは島原の乱を鎮圧に行った時、相手の一揆軍がキリシタンと浪人の集合体であることを知った。つまり、
「宗教弾圧と、失職者の群れの合同軍」だったのである。宗教問題についてかれはどうこう言えなかったが、浪人問題については深く同情した。
(一揆を起こすほど、彼らを追いつめてしまったのか)
 と、幕府の政策に疑問を持ったのだ。
 江戸市中に由比正雪という浪人学者がいて、門人を多く集めていた。軍学者だというが、実をいえば十蔵が懸念している、
「武士の失業問題」を大きなテーマにして考えを講ずる塾だった。そのため、入門者が多かった。十蔵は密偵を放って、由井正雪が幕府に謀反を起こそうとしていることを知った。先手を打って正雪の有力な門人である丸橋忠弥という浪人を捕えた。これが起爆剤となって、各地方で由井に同調している謀叛者たちを全部告発した。
 大手柄だったが十蔵は誇らなかった。それ以前にも増して、「武士の失業問題」を、大きな政策として幕府首脳部の対策を促した。
 十蔵がじっと十年間沈黙を守っていたのは、
「幕府の、島原の乱に対する初動期の大きな過ち」
 に対する批判だ。しかしかれは、
「武士は、一旦命ぜられたことに対しては異議を唱えない」
 という考えを持っていた。だからかれ自身は、
「板倉重昌殿のような小名の総大将では、絶対に九州の大名たちは従わない」
 ということを知ってはいたが、口には出さなかった。これは十蔵の信条である、
「幕命には必ず従う。幕命に過ちはない」  という信念から来たものだった。が、幕命にも過ちはあった。十蔵は自分が副大将を命ぜられた時にがっかりしたが、口には出さなかった。おそらくそういう十蔵の心情をよく理解している理解者が周囲にいたのだろう。だからこそかれを江戸町奉行に推薦する者が多かったのだ。十蔵も、江戸町奉行というポストを貰ってまさに゛水を得た魚゛になった。島原の乱以来ずっーと頭の中に置いて来た゛浪人問題゛を、今度は自分の手で少なくとも江戸においては十二分に考え、また対策を講じられるのだ。十蔵がこの後、浪人に対し、自分の立ち位置を同じ場に置いて、その対策を温かく考えた実績は、今も高く評価されている。大正・昭和の大作家山本有三さんが、十蔵のことを「不惜身命」と題して作品にしている。

(挿絵)大和坂 和司

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