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JAの活動:JA 人と事業

【JA 人と事業】第1回 宮本幸男・JA土浦会長理事に聞く2013年3月13日

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・園芸販売の仕事にやりがい
・「現場でやりたい」単協に転籍
・共通の意識持って切磋琢磨
・農業のビジネスモデル確立へ
・生産と消費を結ぶ新しい事業を

 JAが誕生して66年が経ち、JAは多くの協同組合人を育ててきた。時間だけでなく、多くの経験と知恵を積み重ねてきた。これを次代にどう引き継ぐか、現場でJAを育ててきたリーダーに聞く。(随時掲載します)

次世代の農業に照準「思い」実現へプロジェクト

 ―農協に入り、どのような仕事をしてこられましたか。
宮本幸男・JA土浦会長理事 生家は7haの稲作農家で、小さいころから夜遅くまで農作業を手伝いました。手伝いの人を使いながら、母親が中心の農業でした。長男ですが、中学のころから「百姓にならなくていいから、勉強しろ」と言われました。ただ百姓の実態を知っていたので、百姓に関わる仕事ということで大学は農学部の農芸化学を選びました。農業技術者になりたかったのですが、昭和43年、就職が決まっていたにも関わらず、父親に強引に経済連に勤めさせられました。


◆園芸販売の仕事にやりがい

 経済連に入って最初の仕事は総務でした。毎日、伝票書きで、学生のころ思っていたこととギャップがあり、挫折感を味わい、現場の仕事をやりたいと上司に申して園芸関係の仕事に移りました。最初はレンコンの肥料設計などをやり、県内の支所や東京卸売市場にある支所などに勤務しました。当時はJAの営農や販売課長も27、28歳。こちらも同年齢の園芸課長として、関東6県や長野などの担当者とつきあいました。
 そのころ東京市場は県間競争で、千葉か茨城か長野県かの時代でした。長野県などと現場を見せ合って、植え付け時期や出荷先から出荷期間などを調整しました。10年くらいやると、産地の事情や天候状態などから、だいたいの相場観が分かるようになり、面白く仕事をしました。
 仕事は野菜の販売でしたが、ほとんど休みがありませんでした。特に休み明けの月曜日でその週の相場が決まるため、日曜日がポイントになります。月曜日は通常の2倍の量があるので、それをどうさばくかです。売り先をみつけて、300円に下がるところを800円くらいに抑えると、億という金を産地に回すことができます。
 当時、農協の生産部会長は力がありましたね。茨城県の岩井農協など70億円くらいの販売があり、1000人の部会員がいました。これを部会長が統制し、栽培方法、施肥、農薬の使用、出荷調整まで指導するのです。2日で末端まで徹底できました。ハクサイ、レタスなど期間によっては県産が8割くらいのシェアを持ち、その期間は、農協の集荷場からのトラック最終便が午前2時から3時。緊急の会議や集荷場の手伝いがあり、日曜日もなにもなく、12時ころまで毎日働いていました。
 野菜づくりは半端ではありません。生産者の荒れた手をみれば分かります。出荷最盛期は早朝からほとんど寝ずに働きます。当時、レタスやトマトは品質に厳しい進駐軍用に導入されたもので、農家は高い技術を持ち、野菜づくりに真剣でした。


◆「現場でやりたい」単協に転籍

 平成2年に辞めて土浦市農協に入りました。38歳ころから農協の理事やっており、理事会には出ていました。経済連にいたころから現場が大事と考え、もっと何か農協のやり方があるのではないかと思っていたので、このまま本所にいると現場から遠ざかってしまうと思い決意しました。
 農協に入った当初、農協は入る場所ではなかったと思ったこともあります。専務で入ったのですが、閉鎖的で事務所は汚く、雑然としており、指揮命令系統、上下関係がはっきりせず、それぞれ職員は勝手に仕事をしていた感じでした。私自ら便所掃除をしたくらいですよ。事業計画など参事の鉛筆書きで、理事会で、数字ができていない資料が出たり、説明できないものがあったりしました。
 平成8年に組合長になり、それから4期務めました。そのころの農協の経営は、最初に合併ありきでしたから、合併当時不良債権まみれでした。経営を立て直すため通信教育で簿記を勉強しました。


◆共通の意識持って切磋琢磨

 ―そのころと比べ、農家はどう変わりましたか。
 かつては園芸部会の結束力がありました。共販オンリーだったのでみんなでやろうという気持ちで、県単位の結束、共販ブロックのまとまりがあり、それによって相場が決まりました。やがて共選ではいいものをつくっても評価されないということで、だんだん違う道を行く農家が出てきました。また光センサーなどの最新施設を導入すると、それにコストがかかることから、離れる農家が出てきました。小グループで独自にいいものをつくろうという方向に向かいました。
 従って、その後共販の考えを変えました。例えばレンコンの共販率は6割ですが、切磋琢磨させるため、いくつかの任意組合はあってもよいと考えています。ただ価格が一定の水準を割ったら出荷を減らすなど、共通の意識だけはもってほしい。これをやって十把一絡げの共計は崩壊しました。
 ―いま取り組んでいる「次世代農業プロジェクト」は、どのようなものですか。
 総合JAは選択肢が広すぎて迷っているのではないでしょうか。組合員が多様化し、正組合員、新規組合員、兼業といろいろあり、Uターン後継ぎや優秀な後継者に農協は対応できないのが実情です。高齢で組合員を辞める人が増え、専業が兼業になり、正組合員から名前だけの准組合員が増えます。これにどう対応するかが問われるでしょう。
 営農指導もどこをターゲットに何をするか。農家のためになにをやるのか、どこからも答えが出てきません。


◆農業のビジネスモデル確立へ

 そのため、次世代農業プロジェクトは、10年先を見据えて管内に普及・定着する農業ビジネスのモデルをつくるため計画しました。組合員でない地元の事業者とも連携し、既存の枠にとらわれない新しい事業を模索するのです。これは、農協法や農地法などの枠を超えないとできないことが多くあります。
 農業は多様化しているのですから、農協も多様化した方がいいのかもしれません。非営利や助け合いの組織が育っており、環境は変わっています。また、企業は先行投資で研究開発しますが、農協にはそれに匹敵する研究開発部門がありません。
 重労働のレンコンの掘り取りの収穫機が欲しいのですが、どこもやってくれません。非営利組織でもよい。開発機関が必要です。
 農協は助け合い組織といっても、それを必要としない人もいます。年間2、3億円の農家と200?300万円の農家が、例え同じ作目でも一緒に助け合うのは難しいのではないでしょうか。また地域性もあり、政策を集落単位で考えるか、県単位で取り組むのか。それをはっきりさせないと前に進みません。
 次世代プロジェクトは、経済連に25年、役員として農協に20年かかわってきたなかで、何かひとつやふたつ、将来にサゼッションできるものを、と考えて計画しました。実験事業をやって、人のため世のために役立てたいと考えています。


◆生産と消費を結ぶ新しい事業を

 ―10年後の農業をどうみますか。
 植物工場もみました。農業は工業化できるはずがないというが、工業センスで農業する人が出て、本当の専業農家がでてくるのではないかと思います。農産物販売は市場を通しますが、消費者と直接接触はありません。これができる方法を考えたいものです。ものづくりはユーザーがいて、つくる人がいて成り立つものです。特に農産物は体に入るもので、ダイレクトに結ぶ方法がないものでしょうか。農協はそのエージェント(代理人)をやりましょう。
 しかし、いまはスーパーや小売のバイイングパワーが強く、その意向でしか生産者は動けません。JAが農協法の枠を超えた、生活者と直結した事業ができないものかと考えています。それができて、人と人とのつながりで成り立つ農協らしさが出てきます。それがいま求められているのではないでしょうか。

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