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総合農協の原型が形成された昭和恐慌期2013年7月1日

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【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

・事業兼営と連合会の成立
・農山漁村経済更生運動の展開
・産業組合拡充計画と官民一致体制
・戦後の総合農協の原型をつくる
・なぜ専門組合にならなかったか

 信用事業を主にした産業組合は、明治大正期までは不振のまま推移した。組織率は大正末年でも40%にすぎなかった。
 だが、その間に様々な整備がなされた。事業面では信用事業だけでなく、購買、販売事業の兼営による総合組合化、組織面では市町村・県・国、という系統3段階制の整備がなされた。
 その後、昭和恐慌で農村が疲弊し、小作争議が頻発するなか、国をあげ、官民が一体になって農山漁村経済更生運動を展開することになった。その実行部隊の中心になったのが産業組合である。そして、産組未設置農村の解消、全戸加入、4種兼営を目指した。
 その結果、購買、販売事業が飛躍的に増え、1935年には組織率が75%にまでなった。
 その一方で、農村を営業の基盤とする商人勢力が反発し、いわゆる反産運動が全国に広がったことも見逃せない。

◆事業兼営と連合会の成立

 産業組合は明治大正期には不振のまま推移したが、その中でも注目すべき変化があった。まず1906(明治39)年の第一次産組法改正で、信用組合の他事業兼営が解禁された。それまでの事業別専門組合のかたちのままでは、農家が組合ごとに加入手続きを取る必要があり、その煩雑さが不振の要因の一つであると考えられたためである。
 金融機関の例外として信用組合の他事業兼営が認められたのは、組合の組織範囲が町村内の特定集落に限定される傾向があったため、一般銀行などで予想される弊害の危険性が少ないとみられたからで、「顔見知り」同志が集まった組合の強みであろう。
 1909(明治42)年の第二次改正では、産業組合中央会と産業組合連合会の設置が認められたことが重要である。産組法制定いらい私財をなげうって組合の普及に努めていた平田東助は、そのための中央機関として大日本産業組合中央会を設立し、自宅を事務所として活動していたが、それが公認され翌1910年に産業組合中央会が設立された。
 府県を単位とする事業別連合会も次第に組織され、1913年には47組織に達した。
 この動きを受けて1917(大正6)年の産組法第3次改正では、産組の区域を単位組合は市町村、連合会は府県とし、それまでの部落組合や郡連合会の統合が進められた。そして1923(大正12)年には全国購買組合連合会、1924(大正13)年には産業組合中央金庫が発足し、全国連合会も整備されつつあった。


◆農山漁村経済更生運動の展開

 こうした一連の動きは、産業組合の総合組合化、1町村1組合を基礎とする事業別連合会、、そして系統3段階という戦後農協組織の原型を形成するものであったが、この時期の事業量などはまだ初歩的で、それが本格化するのはこの後にくる昭和恐慌期である。
 1930年の金融解禁で国際経済と直結した日本経済は、ウォール街から始まった世界恐慌の影響をまともに受けてパニックに陥り、とくに農村経済は米価や繭価の暴落によって昭和農業恐慌と呼ばれる長期的な不況に突入した。欠食児童や人身売買が社会問題化し、小作争議が全国にひろがるなど、かつてない社会不安が農村を覆った。
 こうした状況に対して、農業恐慌からの起死回生の政策として登場したのが1932(昭和7)年から国が強力に展開した農山漁村経済更生運動である。とくにその中心課題が、農村経済のあり方を集落レベル、農家レベルで把握し、改善計画を立てるという「自力更生・隣保共助」に置かれたため、農村経済を担当する産組が重視されたのである。
 そしてこのような重い任務を与えられることによって初めて、産業組合の組織率や事業規模など主体的力量の低さが国家レベルで問題となり、その改善が強く要請されることになったのである。


◆産業組合拡充計画と官民一致体制

 このような行政からの要請に応えて、1932年の産業組合全国大会は経済更生運動に対応する「産組拡充5カ年計画」を決定し、翌年から実行に入った。計画の重点目標は[1]未設置農村の解消[2]全戸加入[3]4種兼営、[4]組合統制力の強化である。
 それまで任意加入であった産業組合をすべての町村に設置し、農家の全戸を加入させ、組合の利用度を大幅に高めることによって恐慌を乗り切ろうとするきわめて意欲的な計画であった。そして4種兼営とは信用、購買、販売、利用の事業をすべて行う総合的事業展開を意味していた。
 この目標は、産業組合にとっては組織と事業の拡大および自らの社会的地位の向上となり、行政にとっては全農民を対象とした農業政策の末端を担いうる組織の出現であったから、拡充計画の遂行は官民一体となった強力な体制で進められた。こうして大正末年には40%にすぎなかった産組の組織率が1935年には75%に達し、未加入の零細な小作農民も農家小組合という一種の団体加入制度によって、産組事業の対象とされた。


◆戦後の総合農協の原型をつくる

 拡充計画の目標がほぼ達成されたことで、産業組合はすべての市町村に設置され、すべての農業者がそれに加盟して事業を利用する強大な経済団体となった。信用事業に偏っていた事業内容も4種兼営によって総合的な事業が展開できるようになった。事業量も計画前の1931年に比べて1937年には購買、販売共に3倍に増加するなどめざましい躍進を遂げている。
 戦後の農業協同組合、とくに平成の大合併までの農協は事業における総合主義、組織における網羅主義(全戸加入)、市町村?都道府県?国という行政の3段階に対応した系統3段階制、そして機能における行政補完という世界に類例のない特徴を備えていたが、その原型はこの時期に形成されたことを確認しておきたい。
 こうした産業組合の発展は、一方で農村を営業の基盤としていた商人勢力の反発を招くことになった。肥料商人や産地仲買人だけでなく、地方商工会の有力者である卸売商なども危機感を強め、1933(昭和8)年には商業者側が「全日本商権擁護連盟」を結成して、政府の産業組合への肩入れに抗議する運動を展開した。産業組合運動の大躍進は反産業組合運動(反産運動)という反作用をも生み出したのである。
 農業恐慌の影響は農業者だけでなく、地方の商人、中小企業にも及んでいたから、反産運動もまた独自の基盤を有していた。それは農村購買組合の肥料取り扱いを優遇する措置に反発した肥料商人の運動から始まったが、次第に繭や米穀の取り扱いにも波及し、広範な社会運動となって全国にひろがった。産業組合が大正期から進めていた農村医療組合運動に反発する医師会も反産運動に合流していく。このことはまた後からみよう。


◆なぜ専門組合にならなかったか

 産業組合は、専門組合として出発しながらなぜ総合化の道をたどったのだろうか。欧米の農協は、集落単位など共通性のあったドイツでさえ、専門組合化に向かった。それはやはり商業的農業の自由な展開に応じて、適地適産を求めて農業基盤の地域的、経営的分化が進んだからである。そしてその分化に対応して事業別、作目別の広域専門農協が成立していく。
 戦前期の日本にはこうした条件が欠けていた。地主制のもとで、封建時代さながらに米を現物で小作料として納めることが優先された結果、稲の出来る土地はすべて稲作にまわし、その周辺にわずかに野菜などをつくるという自給的農業が一般的だった。集落を超える人の出入りも驚くほど少なかった。産業組合が、信用組合を中心とする地域限定の、一つの組合で何でも用が足せる総合組合の道を歩んだことは、こうした歴史的条件の下ではきわめて自然なことだったのである。

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