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シリーズ:歴史の転換期にみる人づくり

2014.10.15 
【歴史の転換期にみる人づくり・童門冬二氏】(1)人づくりは木づくり 細川重賢の藩政改革一覧へ

歴史作家、JA経営マスターコース塾長
・大借金藩の藩主に
・下意上達ルール化
・性格・能力に応じて
・民の信頼があって

 徳川幕藩体制の熊本肥後藩で、疲弊した藩財政を立て直し、「肥後の鳳凰」と称された6代藩主の細川重賢。その秘訣は教育・人づくりにあった。歴史作家の童門冬二さんは、そこに改革のためのリーダーシップと、国民のための政治を行うという理念を持った人材の必要性を見る。

◆大借金藩の藩主に

 江戸中期の細川家(肥後熊本藩)は、赤字財政で有名だった。江戸に藩邸があるが、細川家がいくら金融を頼んでも業者のほうが逃げまわった。口の悪い江戸っ子たちが、「新しい鍋や釜の鉄製品を買ってくると金気(かなけ)があって臭いし、また煮ても魚や野菜がまずい。しかし、新しい鉄製品に紙を貼って、『細川家』と書くと、たちまち金気が抜ける」というしゃれっ気のある悪口が出るまでになっていた。
 これでは江戸の金融機関がよりつくはずがない。そんな財政難の細川家の六代目当主になったのが重賢である。重賢はそれまで江戸藩邸の隅でくらす「厄介者」だった。
 大名家では、家を継ぐ者以外は厄介者といわれて生涯飼い殺しにする。したがって藩邸内の家臣たちのみる眼も冷たい。どこかの大名家に養子の口でもあるのなら別だが。そうでなければ生涯を日陰で過ごさなければならない。重賢はそういう境遇にいた。
 ところが家を継いだ兄が突然江戸城で殺されてしまったので、やむを得ず重賢が家督を相続することになったのである。しかし重賢は学問を学んでおり、始終細川家の財政については目を向けていた。そして心中、「これではダメだ」と感じていた。それは、財政運営よりもむしろ、「人づくりがぜんぜん行われていない」ということである。だから重賢は殿様になったときには、すでに、「もしも、自分が藩主の座についていたらこういうことをやるのだが…」という腹案は始終持っていた。
重賢の熊本藩の財政再建の案は次の通りだ。

 一、大倹約を行う。
 二、増収策をはかる。これには農業製品に付加価値を加えて市場価値を高める。
 三、そのためには先行投資や設備投資も惜しみなく行う。大倹約はそのための資金を生むためだ。
 四、なによりも人材育成に力を入れる。
 五、そのために研修所(学校)を新しくつくる

―などである。

 だから、急に殿様にさせられたからといって慌てることはなかった。彼の学問はいってみれば「実学」であって、ただ文章の解釈などにうつつを抜かしていたわけではない。

 

◆下意上達ルール化

 「改革にも学問的根拠がいる」というのが彼の考えであった。つまり改革は単なる赤字をなくせぱいいというものではなく、理想や理念に向かって改革の道を設定する。その理想とは、「あくまでも民を重んずる」という考えだった。彼がテキストとする古代中国の本に『観政要』というのがある。治者と被治者である民との関係をこの本では「船と水」にたとえている。
 「船である治者がよい政治を行っていれば、民である水も静かに船を浮かべてくれる。しかしいったん悪政を行えば、水は怒って波を立て、船をひっくり返してしまう」という文章だ。重賢はこの文章を大事にしていた。だから、殿様になっても、「水である民を大事にしよう」と思っていた。
 細川家は借金が多い。そのため、熊本へ立つ日も借金取りがしきりに迫いかけてきた。それを振り切って東海道を下り、大坂から船で博多に着き熊本城に入った。彼は家老を呼んで、「明日、家臣全員に申し渡すことがある」と告げた。翌日、大広間に集まった家臣全員に対し、重賢は江戸時代からずっと考えてきた自分の「改革方法」を告げた。
 彼は、「改革とは、それに従う者が生き甲斐を感ずるようなやり方でなければダメだ。ただ倹約倹約といっても、家臣たちは気持ちが暗くなってしまう」と思っていた。したがって彼は入城と同時に土産として差し出したのが、「いま、二分の一しか支給されていない給与を極力元に戻す」ということであった。それも重賢は、「まず下のほうから元の給与に戻す。上に行くに従い、しばらく減率を我慢してもらいたい」と頼んだ。城中に集まって末席の方にいる下級家臣は顔を見合わせて喜んだ。重賢はさらにこういった。
 「いままで城内では、どうも下の者の意見が上に達していないようだ。これを解放したい。下の者は遠慮なく藩政について思うところを、わしのところへ書面でさし出せ。もし上司が嫌がって止めるようなことがあれば、封書にして差し出せ。ただわしも秩序は重んじたいので、たとえ封書をわしのところへ届けるときでも、上司にはその旨だけは告げておけ」といった。これも受けた。事実重賢が感じたとおり、熊本城内ではいわゆる「トップダウンがしきりで、下の者の意見が上に達するボトムアップ、つまり下意上達の道が絶たれていたからである。
 だから重賢が「思うところは紙に書いて差し出せ。秘密保護が必要なら、封書でもよい」といったことは、心ある下級家臣たちのモラール(やる気)を大いに振起した。身分の低い連中は「新しい殿様のご意図は、われわれ下級武士を力と頼んでおられる」と感じた。その通りだった。重賢は、「改革は現場に近い者の意見を尊重しなければならない」と思っている。それには実際に現場に出て、農民たちと生活を共にし、年貢(税)の査定に、農民の身になって課税するような感覚がなければダメだ、と感じていた。

 

◆性格・能力に応じて

 下級武士たちも前からそういう考えを持っていたが、必ずしも上層部はそういう気にはならない。城下町の特権商人に徴税まで委任して税を左右している。特権商人たちは、ワイロによって課税額を増減した。したがって、納税者である農民の不信を買い、その不信感は城にまで及んでいた。重賢は「改革は、まず民の信頼がなければダメだ。それには、城が不正を行っていたのではどうにもならない」と考え、ジワジワと自分の方針を出したのである。
 重賢は「改革を成功させるためには、なんといってもすぐれた人材の育成が必要だ。研修所がいる」と考え、学校を創立した。重役陣は「こんな赤字財政のときに、学校などという“金食い虫”をお建てになっては、さらに赤字が増えます」といって反対した。しかし重賢は微笑んで、「違う。財政難のときにこそ人材が必要なのだ。学校はあくまでもつくる。堪えてくれ」といって、城内に「時習館」という学校を建てた。
 教育目的はやはり「現在の財政難に苦しむ熊本藩細川家を、いかにして立て直すか」という考えを実際に教える人材育成のためであった。初代の館長(校長)にはかねてから指導を受けてきた秋山玉山(あきやま・ぎょくざん)という学者を選んだ。時習館というのは「時に学んでこれを習う また悦(よろこば)しからずや」という、論語の冒頭にある文章からとった。学校を開いたとき重賢は玉山にこう告げた。
 「先生、時習館における教育方針は、人づくりは木づくりだとお考えください」
 「木づくりとは?」
 「教える相手を苗木だとお思いください」
 「なるほど」
 「しかし、苗木にもいろいろな種類があります。そこでその苗木はなんの木であるかという"木くばり"にもお気遣いください」
「わかりました」
 玉山は微笑んでうなずいた。そして重賢の教育方針は、そのまま自分の考えとぴったり一致すると喜びました。秋山玉山も「教育とは川のこちら側にいる連中を渡らせて、社会という向こう岸に渡すことである」という。だが玉山は、川のこちら側にいる連中はそれぞれいる場所が違う。それは本人の性格や能力によって、上流にいたり、中流にいたり、下流にいたりする。したがって、その場所から向こう岸に捩れるような方法を考え出すのが教育だと思っていた。

 

◆民の信頼があって

 このへんはいわゆる“「あ・うん」(「あ」は吐く息、「ん」吸う息)の呼吸”というべきもので、はっきり口に出さなくても重賢と玉山の気持ちはぴったりあっていたのである。こうして時習館の授業が始まり、次々と“気くばりによる木づくり”がスタート。重賢の改革は藩内であり、当時の老中筆頭(総理大臣)で陸奥白河藩主だった松平定信から大変感動された。
 定信は重賢に、「あなたの改革は私が担当している国政の改革にも役立つ。ぜひその秘訣を教えて欲しい」と申し入れるほどだった。細川重賢は米沢藩の上杉鷹山とともに江戸中期の名君と讃えられている。


(このシリーズは全3回の予定です。次回は11月10日ごろ掲載します)。

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