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シリーズ:歴史の転換期にみる人づくり

【童門冬二氏 / 歴史作家、JA経営マスターコース塾長】

2014.11.20 
【歴史の転換期にみる人づくり・童門冬二氏】(2)「師でなく友だ」 松下村塾の学習システム・吉田松陰一覧へ

・個性磨き自己確立
・世に役立つ学問を
・すべて「修身」から
・根底に深い人間愛

 人はだれしも長所・短所を持つ。それを補い合うことで、お互いが成長する。幕末長州藩の吉田松陰による松下村塾は、幕末から明治にかけて多くの傑物を輩出した。歴史作家の童門冬二氏はこの背景に、松下村塾の学習システムの存在をみる。

 幕末の思想家吉田松陰が経営していた「松下村塾」は、その前身は、いうところの“よみかきソロバン”を教える実業学校だった。松陰がこの村塾を引き受けたとき、かれは「松下村塾の記」を発表して、これからの村塾の経営方針を宣言した。ひと言でいえば松陰は「萩(長州藩の藩都)の東にある松下村塾から長州藩を改革し、長州藩の改革によって日本を変革する」というものである。

◆個性磨き自己確立

 しかし、だからといって村塾の門人たちに対する教育は強制的な人づくりではなく、今日でも参考になる、かなり民主的なものだった。かれはまず、わたしは師ではない。きみたちも弟子ではない」と宣言した。松陰は、
 ・自分は村塾を経営しているが、それほどすぐれた学者ではない。したがって、これからも自分でも学ぶし、門人たちからも学ぶ。
・したがってほかの塾で門人と称する存在は、松下村塾においては学友である。わたしもひとりの学徒にすぎない。
・村塾の学習方法は、社会問題をテキストにする。
・わかりにくい者には、例としてわたしが書いた「飛耳長目録」を参考にする。飛耳長目録は松陰が九州から青森の果てまで歩きまわった旅行記である。そのときかれが歩き地域で感じた社会問題をメモったものだ。
・そこで、その中から自分にみあったテーマを探し、解決策を自分なりに考える。
・考えた解決策を自分と組んだ相手に話す(対話)。そして合意を得たら、今度は村塾全員に発表する。そして全員から意見を求める(議論)。
・最後の議論には自分も参加する。意見は積極的に述べない。しかしわからないことがあったらきいて欲しい。
 というようなものであった。したがってかれの“人づくり”は、
 ・塾生それぞれの個性を生かして、自己を確立することに主眼をおく。
 ・しかし、人間は必ずしも完全ではないから、自分が不足していると思うことをほかの塾生たちから学び取る。
 ・そのためには、これは松陰の眼からみて、ひとりひとりの長所・短所を調べ、短所を補うような塾生をコンビにする。
 という方針を取った。たとえば高杉晋作と久坂玄瑞を組合わせる。松陰のみるところ、高杉は見識はすぐれているが学問がまだ浅い。一方の久坂は学問は深いが、まだ見識が薄い(つまり、世間の常識をあまり知らない)というようなことだ。
 松下村塾は松陰の生家の一角に建てられたので、父の屋敷の中にあった。庭がかなり広い。そこで松陰は父のゆるしを得て庭の一隅に畑をつくった。
 ここで塾生たちといっしょに食べる食事用の野菜をつくった。この農耕に従事するときは、松陰は『三国志』や『忠臣蔵』などの本を選んで、自分から語った。農耕のときには難しい学問ではなく、大衆的な物語を選んで、その中から「人間として心得るべき“義”を学ばせようとしたのである。

◆世に役立つ学問を

 つまり、「難しいことばかり教えるのが学問ではない。世の中の役に立たなければなんの意味もない」という、実学的な考えを持っていたのである。こうして塾生たちは、まず自分の考えをまとめ相手に告げる。相手は反論する。そこで議論が起こる。議論を重ねているうちにやがて合意に達する。これがいわば「ふたりの結論」になる。
 それを引っさげて全員の討議会場に臨む。いろいろな意見が出る。ふたりは合意しているのだから、その点では結束している。いい返す。こういう、いわば「出力と入力の相互交流」によって、議論の中身は高まる。そして一旦合意したふたりの結論も、修正したりあるいはまったく考え直したりする。
 松陰も儒学者だから、古代中国のよりよき政治がおこなわれていた時代の学習方法をそのまま守っている。日本に伝えられた「人間の生き方」は、 「修身・斉家・治国・平天下」というプロセスだ。修身というのは「自分の身を修める」ということで、「斉家」は「家庭をととのえる」、「治国」は「国(このころは藩)を治める」ということであり、「平天下」は「天下(国家)を平和に運営する」ということである。
 逆にたどれぱ、「国家を平和に経営するためには、まず国民のひとりひとりが自分の身をおさめなければならない」ということだ。それを松陰は
「自治という観点から考えた。したがって修身というのは個人が自分の自治を確立する」ということであり、「斉家」は「家庭が自治を確立する」、「治国」は、「藩が自治を確立するということであり、「平天下」は「国家が独立し、自治を確立する」ということである。

◆すべて「修身」から

 強いていえば、「斉家」と「治国」の間に「地域の自治」というのが入っているといっていいだろう。松下村塾の学習もその「地域の自治確立」の一環なのである。この地域自治・藩の自治確立がやがては、高杉晋作たちが唱える長州藩の割拠(独立)という運動に発展していく。だから長州藩は一時期、徳川幕府軍(いろいろな藩によって構成された連合軍)を敵にまわして、単独で戦い抜くような意気を示す。しかしその根底になるのはあくまでも「修身」であって、それはそのまま「個人の自治確立」であった。
 松陰はなによりも各人の個性と能力を重んじた。そして「目標は高く掲げ、謙虚に生きよう」と唱える。つまり目標のハードルは高くしておく。だが、そのときの能力ではすぐハードルを超えることはできない。自分の能力は実線だ。しかし掲げたハードルとの間はまだ点線であって実線ではない。その点線を実線にするためには、「すぐれた他人から学び取ることが必要だ」と告げるのである。
 だから、かれがひとりひとりの相手として選ぶのはすべて、「それぞれの短所を補うに足る長所を持っている人物」である。しかも松陰は、「だからといって、ひとりからすべてを学べるものではない。この部分は、あの人に、この部分はこの人にというように、多くの人びとから学ぶことが必要だ」という。
 松陰の考えは、「人間は円のようなものだ。だから、接する人のニーズ(求めるもの)によって、いろいろと人を選べる。同時にまた、ひとりの人間が円のような徳を身に備えれば、360度方位
に対応できる」とも考えていた。悪い言葉を使えば、学ぶ方は他人のよいところを、あの人・この人とつまみ食いをする。いうところの“いいとこ取り”をおこなう。
 しかしされるほうもまた自分を高めるためには他人からいいとこ取りをおこないつまみ食いをする。人間の長所に対するつまみ食い合戦をすすめたのである。こうすることによって門人同士の切磋琢磨が盛んになり、「他人から学ぶだけでなく、他人にも学ばせよう」という意欲を高めさせる。こういう人づくりの中から、明治維新は完成し、同時に村塾の卒業生たちは新政府の総理大臣をはじめ要職を占める。
 しかし、その人づくりを行った松陰は、松下村塾の経営期間はわずか1年余だ。そして本人は国家犯罪人として処刑されてしまいます。のちに天皇の命によって、この罪は解かれ、松陰は逆に「明治維新の先覚者」として、多くの人びとから尊敬される。

◆根底に深い人間愛

 だからといって松陰の人づくり方法は、別に奇抜なものでもなく、目からウロコが落ちるようなものでもない。ごくふつうに、「いまいる場所で、身近な方法を活用した」というのにすぎない。身近な方法というのは、「あくまでも、塾生たちの人格を尊重し、それをさらに輝かせるようなヒントを与え、そっと肩を押した」ということである。
 根本的には松陰が、「わたしは師ではなく、きみたちとおなじ学友だ」といい切ったところに原因がある。つまり師弟というタテの関係を否定し、学友というヨコの関係で塾生たちに接したことだ。
このことに塾生たちは感動し、胸を温めた。
 いってみればそういう松陰の姿に「人間愛(ヒューマニズム)」を感じ取ったのである。塾生のひとりひとりが、「先生(松陰)から自分は愛されている」という自覚が、どれほど村塾の空気を和らげ、また暖かくしたことだろうか。そしてその塾生に対する愛情も、決してひとりに偏ることなく、どんな人間に対しても、平等な愛情を注いだところに松蔭の偉大さがあるのである。

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