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農政.農協ニュース

追悼 「過去・現在・未来を自由に往来された三輪昌男さん」
―筑波大学農林学系教授・坪井伸広  (2/21)

三輪昌男さん
 本紙にたびたび登場された三輪昌男(国学院大学名誉教授)さんが2月16日にお亡くなりになりました。行年76歳でした。1966年以来、私は三輪さんから農村調査、農業経済学、農協論、国際貿易論など、それに酒の飲み方まで親しく手ほどきいただきました。この間に、三輪さんが裏方を仕切る、私の恩師や知人の葬儀が何回かありました。そのたびに、「俺のやることをよくみておけ」と、私どもに葬儀運営の手ほどきまでしてくれました。
 そうした訓練を受けながら、いずれは訪れる三輪さんの万一に、追悼のキーワードをいつも考えていました。以下はこの20年来考えていたもので、友人の間にだけ披露するつもりでしたが、本紙の依頼をうけ、はからずも多くの方とともに三輪さんを追悼する機会をいただくことになりました。なお、今回の三輪さんの葬儀では、私の2人の友人がみごとに仕切りました。考えてみれば、教えに従ったわけで、結局、三輪さんは最後の葬儀をも自分で取り仕切ったことになります。これも三輪さんらしいと思います。
 「過去・現在・未来を自由に往来された自由人」の言葉を三輪さん追悼のキーワードと考えていました。告別式の日、旧制高校と大学が同窓の方の弔辞を拝聴し、この表現が相応しいとの思いを強くしました。理論に厳しい方、包容力のある優しい方、理想家、この3つの資質を1人のひとが具えることは容易ではないのですが、三輪さんは「過去・現在・未来」を自由に往来することによって、それらを統一されていたのだと思います。 
 「過去」の表現には理論家の一面をこめています。先達の業績を緻密に検討し精通したうえで、理論を展開されていました。「未来」には協同組合に未来を託した理想家を表現しています。過去・現在・未来には時空を越えた発想、行動の人の意味をも込めています。
 「現在」に三輪さんの優しさの源があります。理論あるいは理想に走ると現実を軽視あるいは悲観しかねませんが、三輪さんはつねに現実社会に身をおく立場を堅持しておられました。それも、近代そして現代の市場経済をとおして弱者である農業経済と協同組合から問題を捉えておりました。弱者の立場からみると、強者の主張の誤りや欺瞞がよくみえると強調され、私たちが少しでも強者におもねたり強者の物言いをしたりしたときは厳しく叱責されました。生易しいものではなく、完膚なきまでにいいのめされたものです。また、原稿の締め切りに厳しかったのですが、それは編集者を困らせてどうするとの優しさからでした。おおらかで緻密、厳しくて優しい態度、普通なら両立しがたい資質を統一できたのも、「過去・現在・未来」をほんとうに自由に往来しておられたからでしょう。
 協同組合に未来を託しながら、著書『農協改革の新視点』にわかるように、現実の農協には多くの不満をお持ちでした。それでも、新自由主義、自由貿易主義批判でいくらかでも力を発揮するのは、既成組織としてはいま農協しかないとの思いから、農協に肩入れをしていたわけです。現実を少しでも変えるには、不満のゆえに切り捨てるのではなく、可能性を後押しすることが重要とみていたのだと思います。稚拙な私どもの思考であっても、少しでも前進する可能性がある場合、それを高く評価し励ましてくれる優しさに、それは通じていました。反面、できることをしない手抜きには厳しいひとでもありました。

 農協の話は先生の著書と本紙にゆずり、私が経験した身近なことを通じて三輪さんの人となりを少しご紹介させてください。三輪さんは、手の回らない私の恩師に代わって、調査畑に入ったばかりの傍流の私を指導してくれました。あるとき、私が書き上げた調査報告書のはじめから終わりまで1字1句に目を通して真っ赤にされ、丁寧な説明までしていただき、今日の私の基礎を固めてくれました。いま、大学で卒業研究、修士論文、博士論文の指導にあたって、三輪さんと同じことを私はやりたいと思うのですが、とてもまねできません。三輪さんは傍流にまで大変なエネルギーを使ってくださったのです。
 三輪さんの農村調査の方法も印象深いものでした。調査ノートのページを多く使う私たちのヒアリングとは異なり、白紙のB4半紙1枚をもって聞き取りに臨まれていました。2時間ほどのヒアリングの結果をその1ページに収めるわけで、いろいろな略号を工夫して駆使しておられました。ヒアリング内容を論理立て、その論理の手順にしたがって頭のなかで半紙に聞き取り内容のスペースを割り振りされていました。話し渋ることについては、いろいろな話を交えながら口を軽くしていくテクニックも抜群でした。ヒアリングの論理立てに固執せず、聞き取りの手順を前後自由に組み変えていました。最終的に割り振りのすべてがメモで埋まれば聞き漏らしなしということだったようです。身近に三輪さんのノウハウを見せ付けられていながら、これもいまだにまねできません。
 1970年代に4年ほどのネパール農村での仕事を終えて帰国し十分な所得がなかった私を国学院の農業経済論の非常勤講師に招いていただきました。いま大学で人事をする身になって分かったのですが、業績のなかった私のような人を非常勤に押すことはできません。当時の三輪さんはどのようにされたのか、無理と冒険をされたものだと思います。海のものとも山のものとも分からない私の可能性にかけてくれた優しさがほんとうに身にしみます。
 「過去・現在・未来」の混在するインドはいいところだとの私の話に興味を覚えていただきました。三輪さんは1980年の国内留学中に、ネパール、インド、スリランカを二人で歩く機会を作ってくれました。5月猛暑のインドでひどい下痢に見舞わせてしまいましたが、カトマンズでは私を覚えていてくれた15歳ほどのホテルのボーイが、ごみごみした街中の自宅でわれわれを夕食に招いてくれるなど、多くのことを楽しみました。出発直前のあるパーティーの席で学長にインド訪問の挨拶をされたとき、インドは内地ですかとの学長の問に、「新宿の少し先」と即答されたユーモアの持ち主でした。当時の三輪さんは、渋谷や私の職場があった有楽町から新宿へ酒席をはしごすることが多く、インドはその新宿の先、はしごを1つ追加するだけだ、お許しを、ということだったのでしょう。
 三輪さんは戦中、戦後の混乱期に青春時代をすごされ、その混沌とした中からしか生まれえない得難い方でした。そのような三輪さんに親しく教えをいただく機会に恵まれたことを神々に感謝しつつ、故人のご冥福をお祈りいたします。(2003.2.21)



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