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シリーズ わが青春の協同組合−−1

焼け跡に生協を立ち上げ
食料危機の中で苦闘軍の隠匿物資も扱う


慶應義塾生協OB会 里吉栄二郎会長
聞き手:農政ジャーナリストの会会員 坂田正通

 昔の医学生たちは、今よりも幅広い学生運動をした。敗戦直後の焼け跡に協同組合を立ち上げた慶應義塾生協OB会の里吉栄二郎会長の活躍は、そのはしりともいえそうだ。食料危機でヒポクラテスの卵たちも飢えに苦しんだ。そこに生命力あふれる波乱に富んだ活動が生まれた。そうした青春の1コマを里吉会長に語ってもらった。氏は国立精神・神経センターの総長などを歴任したが、その運営手腕には、若き日の協同組合経験に由来する部分があるのかも知れない。

(さとよし・えいじろう) 大正13年2月生まれ。昭和21年9月慶應義塾大学医学部卒業。30年医学博士。米国ジョンス・ホプキンス大学神経内科助手、東邦大学医学部教授、東京大学非常勤講師併任、東邦大学付属大橋病院副院長、国立精神・神経センター総長などを経て現在、(財)精神・神経科学振興財団会長。日本神経学会などの会長も歴任。

 ―― 資料によると、慶應の学生消費組合は明治時代にできています。日本で最も伝統のある大学生協だといえます。戦争中は中断しましたが、敗戦後の食料難の中で蘇りました。当時、先生は若い情熱を注いで、戦後生協の草分けとなる活動をされたと聞きます。しかし昔の資料は余り残っておりません。そこで先生個人の思い出を軸に、生協復活期のエピソードなどをお話下さい。まず敗戦後の学生生活の状況からお願いします。

 里吉 戦争末期に医学部課程が1年短縮されましてね。私たちは3年間で病棟実習まで、すべてを修了しました。ところが9月卒業の直前に終戦となり、占領軍命令で再び4年課程に戻りました。私は戦時中、海軍委託学生にパスし、卒業後は軍医になる契約で海軍から月給をもらっていたため、戦後は軍隊がなくなって、弱りました。
 そこへ、軍隊にいた学生たちが次々に復員してきました。しかし街は焼け野原です。都市出身者は住むに家なく、収入もない。彼らは三田の校舎に集まってきました。そして『おう、お前、生きていたか』と喜び合う中で、他の学部の学生とともに自治委員会をつくり、短縮課程で卒業できるようにと、大学に要求しました。さらに自治委員会として、みんなの生活を支えていけるような活動をやろうじゃないかと話し合って、消費生協をつくりました。

 ―― まさに相互扶助の精神で戦後の大学生協運動が始まったわけですね。先生は、どんな役割でしたか。

 里吉 医学部学生の代表でした。住居のない学生のためにと当局とかけ合って東京・九段の近衛師団の空き部屋を借りたりもしました。交渉は、東大や農大などの自治会と一緒でした。他の大学とまとまって交渉しないとノートなどの文房具とか生活必需品の配給にしても、うまく受けられなかったのですよ。

 ―― いまの生協運動とは、隔世の感がありますね。荒廃した当時の世相では劇的な出来事も多かったでしょう?

 里吉 ええ。例えばね、日本軍隊が解散する時に辺地の洞穴などに隠した隠退蔵物資。それが闇市などに流通していました。私たちも聞き込みに回り、情報をつかむと隠匿地に飛んで闇物資を仕入れ、消費協同組合で販売しました。お酒の隠匿もかなりあって、それも売りました。

 ―― 売店はどこですか。

 里吉 三田の校舎ですよ。そういえば、ショーケースを銀座のデパートから無料で借りたこともありました。当時は百貨店も売る商品がごく少ない。『空いているなら貸して』と頼むと『いいよ』となり、銀座から三田までリヤカーで運びました。

 ―― 協同組合の仕事では食っていけなかったでしょう?。

 里吉 といっても、バイト先がなくてね。協同組合としても、内職探しをやり、みんなで軍施設の解体作業のような重労働をしたりで結構、苦労もしました。
 その後、私は進駐軍の通訳というバイトに恵まれました。慶應の日吉校舎が米海軍に接収されていた関係からです。

 ―― 進駐軍物資をもらって組合で売ることもありましたか。

 里吉 それはやらなかった。しかし日本人業者から米軍物資横流しの口利きを頼まれたりしました。米兵が軍物資を内緒で売って、稼いでいたというでたらめをやっていた時代ですからね。通訳の中には、米軍のペニシリンを闇業者に売って、刑務所に入った学生もいました。
 私の場合、闇屋から『米軍の毛布を大量に買った。あんたは協同組合役員で顔が広いからはけ口を紹介してくれ』と頼まれたりしたこともあります。

 ―― 話は変わりますが、いわゆる『講義ノート』のプリントは売れましたか。

 里吉 いや、それは私たちの後です。あれで大学生協は随分もうけたそうですね。後で禁止になりましたけど…。

 ―― 協同組合の収支はどうでしたか。

 里吉 いやぁ、さっぱりでした。国と交渉して、ノートとか運動靴の配給を受け、安く売りましたから。パンなどの食料もかなり扱いましたけど、利益は出なかった。私たちの昭和21年のころは、まだ自治会付属の任意団体で、いわば互助組合のような組織でした。
 それでも正式に複式簿記で記帳しました。みんな熱心でしたよ。仕入れも運送も、すべて学生の手で切り回しました。

 ―― 大学当局からの干渉はありませんでしたか。

 里吉 なかったですね。その点、慶應は自由でした。

 ―― 干渉でつぶれた大学生協もありましたが、慶應はよかったですね。資料には塾生活協同組合の設立は昭和21年。その後、消費生活協同組合法による法人となった、とあります。

 里吉 法人になれば、ビジネスの世界ですが、私たちのころは、助け合いが基本で、自治会と一緒にいろいろやりましたね。引き揚げ学生援護組合の運動もしました。それから当時の学生には結核患者が多かった。ストレプトマイシンのない時代で、結核は大問題でした。そこで、医師としては、学友を療養所へ送り込む仕事もしました。

 ―― 先生のご専門は神経内科ですが、現在の話に飛び、神経系統の患者は増えていますか。

 里吉 いや、余り増えてはいません。しかし長寿社会だから、老人性痴呆は増えています。

 ―― 最後に、先生の日常的な健康法はいかがですか。

 里吉 家の近くにある旧林業試験場の森を朝1時間ほど犬を連れて散歩しています。

 ―― では、一般の生協史には出てこないようなお話を、いろいろとありがとうございました。


(インタビューを終えて)
 大学生協の前身消費組合の歴史では、同志社大学に次いで慶応は2番目に古い。その慶応義塾生活協同組合のOB連中は隔年ごとに懇親会を楽しんで来た。任意の集まりだったので、長老の里吉先生に今年OB会長になって頂いた。この機会をとらえて、戦後食べ物も住むところも無い時期、当時医学生で自治会活動していた里吉先生に、お話を聞いた。
 里吉先生は神経・筋疾患臨床研究がご専門で、現在は国立精神・神経センター名誉総長、その財団の会長でもある。東京都小平市の旧陸軍精神病院跡地という7万坪の広大な雑木林の中に武蔵病院と研究所の建物があり、週1日はそこで患者の診察もしておられる。
 慶応医学部昭和21年卒業生は99名、その内半分は生存、会合などに出席できる元気な同期生は20名程度かなとおっしゃる。開業医の方がストレスが多いのか短命のようだと。老人の痴呆症が問題になっているが昔に比べ数が増えたわけではない。寿命が延びたからというご診断。里吉先生は白髪もふさふさし、お元気そのもの、健康法は毎日1時間、近くの公園を散歩される事。(坂田)




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