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「21世紀に向けて食料・農業・農村に新しい風を」

座談会 産業組合法施行から100年 次代の農協運動を考える
 
(出席者) 榊春夫氏 (協同組合懇話会顧問)
  田中秀一氏 (前JA松本ハイランド組合長)
(司会) 有賀文昭氏 ((財)協同組合経営研究所理事長)
 日本の協同組合は1900年に制定された産業組合法によって誕生した。現在の農業協同組合も産業組合が出発点となっている。今年はちょうど100年にあたる。歴史を振り返り、次の次代に何を引き継いでいくべきか、単協、全国連それぞれの立場で農協運動に関わってきた方々に語り合ってもらった。

産組には経済再建の信念が−−榊

産業組合と農協運動の違い−−田中

 有賀 今年は産業組合法施行100周年の年で、JA全中でもJA大会の前日に記念パーティを開くことになっているようです。しかし、どうも今の農協組織には、間に農業会の時代があったこともあって、農協が産業組合から続いているという意識はあまり強くはないのではないかと思います。私自身は農協世代なんですが、産業組合、さらには農業会の発展のうえに今の農協が始まったと考えていますが、まず、この点をどう考えればいいのかお話をいただければと思います。

榊春夫(さかき・はるお)氏
大正8年愛知県生まれ。昭和21年東京帝国大学法学部卒業、同年全国農業会農政部に勤務、23年全国販売農協連合会、26年業務統制部、34年麦類課長、43年初代東京食品集配センター場長、45年青果部長、47年全国農協連合会総務部長、48年同常務理事、55年全国農協中央会常務理事、58年農林年金理事長、64年同退任。昭和62年より協同組合懇話会代表、現在は同顧問。

  私は大正8年生まれですから、昭和の大恐慌のときが小学校時代で貧乏のどん底を経験しました。
 産業組合の活動の実際は、子どもでしたからよく分かりませんが、よく伝え聞くのは、あの恐慌の時代に関係者はみな使命感をもって産組運動に身を挺して闘ったということです。農家の人たちは本当に困窮していた時代で、産業組合の人たちはこの運動こそが日本経済を立て直すものだと信念を持っていたと思いますね。
 それが一方で反産運動に発展するという経過をたどったわけですが、産組側とすれば闘う目標があるわけですから、いよいよ運動は強くなっていくという相乗効果も生まれ、後に語り継がれるような発展期を迎えたんだと思います。

 そのときに、反産運動を契機として産業組合としては中央会を中心に政治活動を始めることになったわけですね。政治の分野に手を伸ばさなくては自分たちの目標は達成できないと考えた。これは政党政派にとらわれない中立の立場で政治力を結集していこうという運動でかなりの成果もあがりました。しかし、私が思うには、この動きがちょうど戦時体制に入っていく流れと重なって行政主導の組合指導に拍車がかかり、結局、官僚統制のもとでしか仕事ができないようなところまでいってしまったんじゃないか。

 ですから、今から考えて、あの時代の産業組合と今の農協のつながりはどうかといわれても、当時は地主体制が主体で戦後は独立した自営農家を中心にした制度になったこともありますから、いたずらに一貫性を求めるのはどうかという感じもします。社会経済の変遷とともに変わるべきものは、変えていくのが当然です。

 田中 私が生まれたのは昭和4年ですから、まさに昭和恐慌の最中なんですね。実は、親父がその年の元旦から日記をつけ始めていて、そのなかに産業組合のことが生々しく書かれているんです。それを読むと当時一貫目、4、5円していた繭の価格が一気に2円台に下がってしまった大変な時代であることが分かります。
 なかでも強く印象に残るのは、そのころ電灯が農家に入って便利にはなったけれども電灯代が払えない状況になってしまったということです。それで電灯代を安くしろという電灯争議を始める。毎晩毎晩オルグに歩いて近くの村にも出かけていって集会を開こうとする。すると、すでに警官がいて、演説やめろといわれたことなど生々しく書いてあります。それで電灯料が払えないものだから、石油ランプを共同購入してそれを各農家につけさせるんです。電灯料が下がらないとわれわれはやっていけないと会社に対して村あげて運動したんですね。

 その後、戦時下には産業組合は戦争に協力する団体になってしまったわけですが、そのころのことが日記には、米でも麦でもイモでも桑の皮でも、全部、供出させられたとある。しかもそれは常会といって、15軒から20軒ほどの農家の末端組織に割り当てが来た。それを親父は農家に割り振りしてたようですが供出が完遂できないと、ものすごく圧力がかかってくる。だから、ある農家が決められた量の供出ができないとなると、残った仲間でもう一度割り直して供出するということまでやっていた。
 それは終戦直後にも占領政策とからんで続いていく。その片棒を組織として担っていたのが農業会だったんですね。それから農協になっていく。この経過を考えると産業組合と農業会、そして農協というものは、たしかに農民の歴史としてはきちんと位置づけられるかもしれないが、協同組合の運動としては非常に質が違う感じするんですね。  

有賀 産業組合は、戦中に農業会になって、それから農協へと制度が変わるわけですが、統制経済というのは戦後もある時期まで続くわけですね。
 そこでよく言われるのは、新しく農協として生まれ変わったといってもそれは看板の塗り替えに過ぎなかったのではないか、ということですね。しかし、その看板の塗り替えという意味も、農家からすれば産業組合、農業会という組織とのつながりがあったうえで、戦後、今度はそれが農協になったということではなかったのか。

田中秀一(たなか・ひでいち)氏
昭和4年生まれ。昭和40年松本平農協理事・初代青年部長、44年同常務理事、47年専務理事、58年副組合長、平成元年理事長、4年松本ハイランド農協組合長、11年同組合長退任、この間、長野県JA組合長会会長・長野県各連合会理事を歴任。著書に『地域のなかへ』(農協活動35年)がある。

 つまり、農業会から農協へという時期に、それまでのつながりがすぱっと断ち切れて再スタートしたということとは違うのではないかと私は考えているのですが。  

田中 その点はそのとおりだと思います。問題は、それをどのように認識していくかが大事だと思うんですが、そのためには視点を集落協同体に当てて考えてはどうかと思っています。
 最近、自分の集落の歴史を調べてみたところ、明治41年に、当時は「区と」いう単位でしたが、その区の規約が出てきたんです。そのなかで非常に感動したのは、農事改善ということにものすごく力を入れていまして、それを産業組合に参加して実現しようという項目が入っていることです。
 だから、当時から集落は、集落協同体としての機能を持っていたということだと思うんですね。今の行政のやっていることを全部取り込んで、たとえば、品評会などもやっているんです。その品評会には郡役所の人を呼んで審査してもらったりしている。
 つまり、集落がどういう変化をしてきたか、そして産業組合としての活動に集落がどう関わってきたのか、それを見ていくと協同組合というものが見えてくるような気もするんですね。

 そういう観点からすると、今は集落協同体は崩壊したという考え方もありますが、私はそうじゃないと思っているんです。たしかに昔はお互いに同じような環境のなかで馬を飼い牛を飼いして農業をやっていたからみなの共通認識がありました。それにくらべれば今は確かに新しい住民が入ってきたり、農家でも専業と兼業に分かれるなど集落そのものは複合化しています。
 それでも協同体としての機能は衰えていないと思うんです。集落はみんなが生活する場だという視点に立って、道路の問題を考えたり環境保全を考えたりしていますし、あるいは健康や福祉まで生活するうえでの共通な問題はあります。協同組合、つまり農協はそれを引き出しどう捉えていくかということだと思います。こういう集落活動を原点に協同組合を歴史的に見ていくことも一つの方法かなと思います。  

 有賀 たしかに集落がベースにあって、その上に上部構造のようなものとして産業組合ができていったということだと思いますね。その上部構造が農業会になり、農協になったということでしょうか。

専門集団突出で農協離れも−−田中
「共生」とは共通の利益で−−榊

 有賀 そうしますと農家にしてみれば、農協ができてからでも50年以上経っていますが、産業組合時代まで含めれば5世代も6世代も今のJAとの関わり合いがあるということになります。ですから産業組合や農協をつくっていくという意気込みのあった時代とは違って、農協といっても農家にとってはそう特別な存在ではなくなってきているのではないかという気がするんです。
 そういうなかでJAグループでは、組織面でも事業面でも大変な変革がすすんでいるわけですね。
 そこで今度は、JAの現状についてどうお考えになっているかお話を聞かせてください。

 

有賀文昭(あるが・ふみあき)氏
昭和13年長野県生まれ。昭和36年東京大学農学部卒業、38年同大学修士課程修了、同年全国農業協同組合中央会入会、農政企画部長、農政部長、広報部長、総務部長を経て、平成5年常務理事、8年(社)農協労働問題研究所副理事長、11年(財)協同組合経営研究所理事長。

  いちばん考えなくてはならないと思うのは、協同組合の組合員とは、出資者であり経営者であり利用者であり、さらに場合によっては従業員でもあるという同一性を持ったものであるということです。それが協同組合の事業体としての原点なんですね。
 ところが、今の組合員は、われわれは協同組合を利用すればいいんだ、いちばん便利に利用できる協同組合がいちばんいいんだ、こういう感覚が非常に強いんじゃないか。

 ここはやはり組合員教育なり職員教育で根本から叩き直して協同組合のアイデンティーを再構築するんだということを事業の本筋に据えないといけません。「あなた、経営する人、私、利用する人」というのではだめだと思うんですね。

 田中 私の場合、農協の現場で大事にしてきたのは組合員組織を大切にしてきたということです。組合員の意思を反映するためには、組合員組織がしっかりしていなくてはならないと思いますね。だから、組合員が主人公であって農協の役職員は脇役だよとずっと言い続けてきたんです。
 ところが、今度の大会議案を読んでいてはっとしました。それは、今までは「組織・事業・経営」という言い方をしていましたが、いつのまにか「経営・事業・組織」になっていることです。それから「組合員に選択してもらえるような事業展開をしなくてはならない」というようなことが書かれている。
 現実問題としては、他の企業の事業よりも農協を選択してもらわなければならないとは思いますが、現実がそうなっているからといって、それをそのままこれからの目標にしてしまっていいのかどうか。

 榊さんが指摘した自分が出資して自分が経営するという協同組合の原点から言えば、なぜ選択しなくてはいけないのか(笑)、ということになりますよね。
 JA合併も大事ですし、県連と全国連の統合の問題も大事ですが、産業組合当時の思想からすると、どこか逆になっていないかと思います。もちろん経営は大事ですが、それはあくまで協同組合運動の一つの手段として考えるべきことであって、何かおかしくなっていないかと違和感を持ちました。

  やはり経済事業をやる以上、他の業態に伍して競争に負けないようにしなければなりません。それだけの能率や利便性は確保しなくてはならない。
 ただ、協同組合の場合、他の業態と違うのは、たとえば、どういう商品を提供するのかを考えるとき、儲かる商品がいい商品だということではなくて、何が人間のためにいい商品なのか、健康や資源の問題、あるいは自然環境などをふまえた新しい人間のあり方に照らして、商品を供給していくということが求められるわけでしょう。だから、利便性や効率性の追求との両面をうまく使い分けていかなければならないわけです。

 田中 世の中が変わってきたから、農協の経営も変化に対応する力をどう持つかが問題になりますし、そのための専門集団ももちろん必要でしょうがそれがあまりに前に出てしまうと、組合員は素朴な気持ちとして農協が遠いところへ行ってしまったという反感を持つと思いますね。そこを今回の大会を契機に検討すべきではないかという気がします。

  今度の議案は「農と共生」というテーマですが、実はこれはなかなか面白いなと思っています。
 共生というのはもともと自然界で生物が棲み分けていることですよね。だから、おそらく大会議案のテーマとして選んだ意識の根底には、日本の環境にあった日本独自の農業というものを消費者にも理解してもらい、国際的にも容認してもらって日本農業の行くべき道を打ち立てていかなければならないということだと思います。

 ところが、よく考えてみると自然界の共生の秩序というのは、自然淘汰の結果です。食うか食われるか、適材適所にはまったものが生き延びているだけで、なまやさしい居心地のいいものでは必ずしもない。それをどこまで感じて共生という言葉を使っているのか、という点で面白いと言ったんです。 共生という思想には、おそらくヒューマノミックスの考え方があると思う。つまり、人間性に立脚した経済体制、社会体制を育んでいかなきゃならないということですね。それはそれで結構ですが、これを推進しようと思えば、弱肉強食、適者生存が原理の世の中の市場主義とどう闘っていくのかということなしには、こんなことは空念仏になってしまう。だから、そこまでの覚悟を持っているのか、と言いたくなるんですね。共生というのは、予定調和みたいに何となく秩序が保たれるといようなものではないと思うんですね。

 むしろ過当な競争は是正していかなくはいけない、商品生産にしても流通にしてももっと人間本位に考えていかなくてはいけない、ということが根底にあって共生という考え方が打ち出されているんだと思うんです。そうでなければ生産者と消費者が手をつないで理解し合うということはあり得ないわけですからね。共通の利益に立ってというのが大原則ですから。
 しかし、一方で今指摘したように市場主義と闘わなければならない面もあるわけだから、相当の覚悟をもって共生を推進しなければいけません。これはどこかから与えられるものではないと思います。

 有賀 全中のほうでは、組合員中心のJA運営を意識しているとは思います。ただ、とにかくJAの事業を取り巻く環境は厳しくなっているわけですね。とくに信用事業をめぐる動きです。IT革命やグローバリーゼーションといわれているようなものに対して、JAがどうやって対応していくのかが厳しく問われているわけですね。
 そのほかの事業でもコンビニやスーパーの進出など流通の変化や農産物の販売をみても農家がいろいろなルートで販売できるようになってきた。こうしたことに対してJAの適応力が不十分だとの認識から、その能力アップをしないと21世紀に向けての展望が開けないという強い危機感があると思います。

 田中 そういう危機感は大切ですが、組合員が主体でなくてはならないという基本をどう事業のなかに生かすが問題です。
 たとえば、信用、共済事業は組合員組織にはなじまないという意見があります。ところが私はそれを否定して、信用も共済も組合員組織に託して事業を進めたんです。組合員に信用や共済の専門委員会などをつくってもらいました、そこで事業をどうすすめていかなければならないか考えてもらった。いろんな問題がありましたが、農家自体が事業をよく理解しますから、たとえば、共済の推進にしても逃げる農家を追いかけるのではなく(笑)、農家のほうから自分の家はこういう共済への加入が必要なんだという意識になった。

 それから土地利用についても地域のなかできちんと計画を立ててもらった。そのうえで行政でやっている計画とドッキングさせ、それを農協が区画整理事業や農業構造改善事業と絡めて進める。つまり、組合員サイドに根を置いた事業活動をしていった場合には経営もよくなるんですね。
 ところが経営だけを先行させると、どうしても農家の協同組合に対するニーズと離れがちになってしまう。これを体験してきましたから、回り道のようだけれども組合員組織に立脚した活動が必要だと感じるんです。

組合員組織に立脚して−−田中
誰もが納得できる経営体を−−榊

 田中 それからこれからのJA経営を考えると役員体制の問題があります。これは論議になっていますが、経営管理委員会制度については議案のなかではすっきりしない位置づけになっていますね。
 率直に言って経営には素人の農家では経営というものがわかりませんよ。これからは農家が専業でやっていくには、半ば法人化していく傾向が強くなりますから、そういうみなさんが農協の現役に執行体制に入れるかというと難しいと思います。私の場合は専業でありながら、青年部長の立場だったものですから自然に農協の経営に携わるようになれましたが、これからはなかなか難しいです。そうした時に執行体制をどう考えるか、管理体制をどうするかは真剣に考えなくてはならないと思います。

 その場合、いわゆる経営管理委員会も必要だと思いますが、その背景に組合員組織がしっかりしていないとだめだということですね。ただ、執行と管理を分離しただけでは、それを受け止める組織がしっかりしていないと。単にそういう制度に頼ってしまうのはどうかと思います。

 有賀 経営管理委員会を導入したところではこの制度はでいいという声も聞こえてきますが、組織全体としてはちょっとどうかなという思いも強いと思います。そういう点では経営管理委員会を動かしていく仕組みをさらに工夫しないとなかなか普及しないと思いますね。

  もうひとつ強調しておきたいのは、先ほど、田中さんからJAが地域計画の推進に積極的に関わらなくてはならないという指摘がありましたが、いちばんの問題はわれわれが抱えている農地問題をどう整理していくのかということだと思います。
 戦後できた自作農主義は大変立派な思想に基づいた制度ではあるけれども、現実の問題として農地の分散零細所有を固定化してしまった。それがあるために集約的な農業経営をしようと思っても農作業の受委託でカバーしているという状況です。所有権移動がともなったものはほとんどなくせいぜい賃貸借。これでは大規模経営というものはとても育っていかない。ここへどうメスを入れるか。

 一方、農家では高齢化して農地を人に託すといってもどうしていいか分からないという人もいます。それならいっそ作付け放棄するかということになってしまう。そうならざるを得ない実態なんですよね。つまり、日本の農業は、農地や中核農家が確保されているかどうかということから考えれば、実は破産状態なんですよ。この窮状について、農協が痛みを感じないということでは、私は農協は滅びるという気がしてなりません。

 そこで、大規模経営に農地の所有権を集める場合に、その持っていき方を農協運動の本質的な考え方に立って進めていく方法はないのかと考えてみたんですが、一つの考え方としては農地を現物出資してもらって、生産法人にその所有を移して、自分たちが経営者であり耕作者でもあるという体制ができないかということです。要するに今まで自作農主義でやってきた人にとっては、他人に売り買いで土地を手放せといっても、どうしても先祖に申し訳ないという気持ちがあると思いますから、農地をひっさげて新しい経営体に参加するんだというなら、祖先も許してくれるのではないか。株主として権利を行使するし経営にも参加していく、働きもすると。

 もう一つ、農家の現状を破産状態であるということの延長で考えると、金融機関が破産したときに債権を買い取って担保などを処分して整理をするし、引き受けてくれる人があるならそっちへ譲渡するという債権整理機関ができているわけですから、農地についてもこういうものを公的につくったらどうかと思うんです。もう農業ができなくて困っている人から、農地を預かっていい経営者に移して集約をし、適正規模の経営を創造していくこと。これを協同組合的な考え方に立ってできないものかということです。
 所有権を集約してみんなが納得する経営体をどうつくるか。真剣になって考えないと、自給率目標を掲げても肝心の農地も耕作する人もいないのではどうしようもないですよ。農家に対する直接所得補償政策を考える場合にも、これを前提としたらよい。

協組の4つの基本的価値を−−田中
万人に共通する基本倫理で−−榊

 有賀 今日は産組以来の歴史をふまえてJAの現状や課題を語っていただいてきました。そこで最後にご紹介したいんですが、ICA(国際協同組合同盟)のロドリゲス会長が最近、協同組合には2つの波があると言っているんです。
 1つはロッチデールからベルリンの壁の崩壊まで、第2はそれ以降の現在だという。そして、その第2の波のためにICAは1995年に新しい原則を作ったというわけです。
 どうしてこういう括り方をするのかというと、第1の波のときは資本主義と社会主義があって、その中間的なものとして協同組合を考えていた。ところが90年以降は市場経済が支配的になって、そこで協同組合がどういう役割を発揮するのかという協同組合の新しい波が始まっているというわけです。

 同じことはわが国でも新食糧法が象徴しているように、国の管理に依存する時代ではなく、あくまで自由な市場流通を前提にした時代が始まっている。そういうなかで協同組合、JAの将来をどう考えたらいいかについてはいかがお考えでしょうか。

  新しい基本法も市場原理に頼りすぎているといいますか、責任逃れのために市場原理とは大変いいものだという幻想で政策を描いているんじゃないか。ですから、市場原理とは弱肉強食、強者必勝の論理じゃないか、それを無制限に許していいのかという協同組合の本質的な価値観が出てこなくてはいけないと思います。
 金融の世界をみても、ある一つの会社の思惑違いで恐慌に陥るようなことを許していていいのかという問題があります。それから一般の商品やサービスについてもそれが儲ける手段としてだけ評価されるのではなく、モノの使用価値というものを基本に置いた生産、流通というものを考えていかないといけない。そういった側面は協同組合運動でもっとも重視しなくてはいけないと思う。

 これは協同組合内部にとどまらず、今の資本主義に対する考え方として、協同組合の考え方というのは万人に共通する基本とすべき倫理を持っているんだということを再認識しなくてはいけないんじゃないか。そういう意味で農協の教育事業というのはやはりそういう自覚を促す役割を果たしてもらわなくてはいけないなと思います。

 田中 私は、21世紀にどうやってJAが地域に信頼されるか、それを期待したいと思う。そのためにはきちんとした理念を確立することが大事だと思います。そういう意味では、協同組合の4つの基本的価値、「参加」、「民主的運営」、「誠実」、「他人への配慮」をこれからも大事にしていかなくてはならない。
 組合員なり地域住民のニーズにどう応えていくかを考えると、ニーズといってもそれは共通のものでなければなりませんから、集落協同体に焦点を当てそれを土台にした協同組合活動に取り組んでいただきたいと思います。その点で、信頼の芽が出ているのは健康福祉活動ですね。これは共通のニーズなんです。これにJAがどうかかわっていくか。私は今JAを離れてみていると、まさに協同組合がこの問題にどう関わっていくかということが地域の信頼度を図るバロメーターになっていると感じています。

 ただ、その場合に自己完結機能ということが拡大解釈されて、協同組合だけで何でもやれるという認識になってはいけないと思いますね。地域のなかで役割分担をしながらネットワークを作ること、ネットワーク化こそ21世紀の協同組合の果たす役割ではないか。そのネットワークの中心的な役割をJAに果たしてもらいたいですね。

 有賀 大変ありがとうございました。

座談会を終えて
 「産業組合の時代から歴史を踏まえ21世紀のJAを考える」ということで、僭越にもお二人の大先輩との座談会の進行役をさせていただいたが、榊さんは1919年、田中さんは1929年、私は1938年と、奇しくも戦前でほぼ10年ずつ生まれの違う組み合わせとなった。
 田中さんは生まれ故郷の農協で、榊さんと私は全国段階でと活動の場は違ったものの、戦前の農家や農村の状況を体験している(私の場合は物心つく前といえるが)という点で、農協の原点がわかりあえる大変楽しい実りのある対談であった。産業組合以来の農協の原点、基盤が農地を媒介とした集落にあるということ、そして、その集落の変容への対応こそがJAの未来を決める、という思いは共通だったように思う。

 今21世紀を目前にして、産業組合法公布100周年が関係者の間で話題の一つとなっているが、産業組合時代のことを覚えておられる方々がお元気に活躍されている間に、ぜひともお話を伺っておきたいものである。なんといっても産業組合の時代は組織の草創期であり、運動の伊吹が感じられる時代だからである。新協同組合原則では、協同組合の「価値」のところで、わざわざ「創始者達の伝統を受け継いで」と述べている。21世紀のJAが産業組合時代からの「伝統」を引き継ぎ、さらに新たな発展を遂げてほしいものである。   




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