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特集:21世紀 食料・農業・農村を拓く女性たち
――JA全国女性協創立50周年記念


インタビュー

女性の地位向上はキャラメル1個から始まった
俳優 三國連太郎さん 大いに語る

−−俳優生活で大きな影響を受けた「荷車の歌」


聞き手:山岸豊吉さん(全国農村映画協会顧問)


 俳優になる前の三國さんが一時期、農協に勤めていたとは初耳だった。農協婦人部の資金集めで作った映画「荷車の歌」に思い入れが深いのは、農民の経済的地位向上に情熱をかけた青春があったからだろう。44年前の田すき中に倒れる演技は凄絶だった。今78歳。女性の地位向上のために「日本はもう一度、母系社会に戻るべきだ」と刺激的な発言もあったが、語り口は謙虚で静かで品格があった。(株)全国農村映画協会の顧問で「荷車の歌」の助監督を務めた山岸豊吉さんと語りあってもらった。

◆兵隊から帰って農協へ
 「農民に価格決定権を」と訴え

(みくに れんたろう)大正12年(1923)群馬県太田市生まれ。昭和26年、木下恵介監督の映画「善魔」に主演デビュー。この時の役名「三國連太郎」をそのまま芸名とし俳優に。出演作品は167本。「利休」、「息子」などで日本アカデミー最優秀主演男優賞。平成5年には勲四等旭日小綬章。

 山岸 俳優になる前の青春時代のお話を少しして下さい。

 三國 戦後、兵隊から帰って実は鳥取県の農協に勤めていたんですよ。倉繁忠吉さんという県購買連の専務さんと偶然に顔見知りになったのが縁です。
 20代前半でしたか、生意気に「農民に価格の決定権を」なんて唱えましてね。サツマイモは加工したほうが価格の決定権を握れると考え、倉吉につくったでん粉工場で粗製のブドウ糖のようなものを生産しました。
 ところが当時は統制で中国山脈を越えて大阪の市場へ出荷できなかった。そこで僕は割と手先が器用だったので、統制の網をくぐる輸送証明書をもっともらしく作りましてね。大阪・道修町の大きな薬品工場に、何か甘味料みたいな形で納品したなんていう思い出があります。

 山岸 農協をやめて東京に出てきたのは何歳の時でしたか。

 三國 26歳でした。これも偶然に道端で松竹の役員さんに「俳優にならないか」と声をかけられて試験を受け、木下恵介監督の「善魔」でデビューしました。その後、日活映画に出た時に出演料が手形だったので、街の金融業者で割ったところ、日活の社長が社の信用にかかわると思ったのか激怒してクビになりました。そんなこともあって、当時の僕は3年ほど映画界から干されていたんですよ。

◆女性を悲しませた軍の施設で
  戦後の文化の展望と方向を示す

(やまぎし とよきち)昭和5年長野県生まれ。東京学芸大卒。昭和36年全農映に入り、45年代表取締役となる。農協、生協の組合員向けの映画、ビデオ、テレビなど1000本以上を製作。「荷車の歌」をはじめ山本薩夫監督のもと多数の映画で助監督を務める。

 山岸 その後が「荷車の歌」主演となりますね。全国農協婦人組織協議会が製作推進を決めたのは昭和33年の大会だったと思います。企画はもっと早かったのですが、それまでは婦人部組織化の初期のころで踏ん切りがつかなかったのです。

 三國 僕も農業界とは多少の縁がありましたから気にかけていたところ「東京の九段会館で開く全国の婦人部大会で訴えてくれ」と頼まれ、何かの足しになるんだったらと舞台で10分ほどしゃべりました。
 「キャラメル一個で日本の婦人の地位は向上します」と訴えた一言だけは覚えています。当時は森永の小さい箱が10円でした。

 三國 その思いつきから、孫に与えるキャラメル一個で映画が作れます、でき上がれば大事な一つの記録として後々に残って世の中のためになるはずですから、よく話し合って映画づくりに投資する団体運動を起こしてもらえませんか、などと訴えたように思います。その大会で話がまとまりました。僕は、その決断に日本の女性はすごいと感激したことを思い出します。

 山岸 結果的にはキャラメルでなく、卵一個を出し合うことになりました。婦人部がゼニを集めるのが難しい当時、三國さんが静かに「キャラメル一個」を訴えたのが殺し文句になったんですよ。それが効いたんだ。三國さんは農協職員をしていたこともあって思いも深かったんでしょう。
 あの製作費カンパは大運動になり、婦人部組織も運動を通じて目標を達成しました。組織も固まった。三國さんも、そこに一役買っているということになりますね。

 三國 いやいや、そんな。しかし今も九段会館の前を通ると当時を思い出します。あの会館は戦争中は偕行社(かいこうしゃ)で軍人会館でしたか。女性を悲しませてきた軍の施設で「荷車の歌」のような内容の映画の出発点になった、というのは、戦後の大きな転換期を感じさせましたね。文化の展望としても一つの方向を見せたと思います。今後も女性が固く手を結んでいけば日本の政治に真っ直ぐの軌道を引いていけるのではないかとも思います。
 しかし最近は全体に母親としての意識が低くなったという気がします。子供の虐待事件なども起きています。子供たちの犯罪を見てもね。どこかで屈折してしまったんですね。

◆21世紀の肥やしになる材料がつまった「荷車の歌」

 山岸 その面でも女性部の活躍に期待したいと思います。さて「荷車の歌」は全婦協の決定後すぐ撮影に入り、1年がかりで昭和34年春に完成しました。年月もゼニもかけました。当時で5〜6000万円が、今なら8億円くらいかかるスケールの大きい作品です。上映時間も2時間30分という大作です。

 三國 今なら興行会社から30分ほどカットしてくれといわれますよ。団体が上映してくれるから2時間半が通りますが。あんな映画ができるというのは戦後日本映画の1つの記念塔ではないかと思います。その後どんどん質が悪くなってきます。

 山岸 ほんとです。いい映画が作れなくなってきました。そこで今「荷車」の再上映運動を徹底的にやろうと汗水垂らしています。あれを見れば明治、大正から昭和20年までの民衆や農村の歴史がすぐわかります。
 その歴史をつかんで現状から脱却しなければなりません。あの映画に21世紀の肥やしになる材料が詰まっています。

◆日本映画史上画期的な1000万人観客動員

「荷車の歌」のなつかしいシーン

 三國 話は変わりますが、信州でロケをやりましたね。

 山岸 原作は広島県三次の山村が舞台ですが、東京から遠くて製作費が合わない。そこで地形的に似ている長野県のロケが多くなりました。杖突峠とかね。

 三國 10数年前に飯田市のあたりを歩いていて、お婆ちゃんに「茂市さん」と呼ばれたことがあります。「荷車」の役名が茂市だったので劇中人物と錯覚してるんですよ。結局その家でお茶とお新香をよばれましたよ。あの映画は10年くらい上映していましたか。

 山岸 そうです。1000万人以上の人が見たといいます。映画史上まれに見る観客動員です。

 三國 今は200万人から300万人といえば大成功ですからね。

 山岸 三國さんか茂市か。望月優子さんかセキさんか。観客に錯覚が多かった。茂市には悪役的要素があり、嫁のセキを苦しめるため試写会の直後は「こら!茂市!」って怒ってる婦人部員もいましたよ。とにかく試写会では号泣と拍手で九段会館が割れるんじゃないかと思いました。三國さんは演技を超えた茂市になっていました。一番の苦労は何でしたか。10代後半から65歳くらいまでの役でしたが、劇中では広島に看護婦の娘を探しに行って原爆症にかかり、すごいメークをしていましたね。

 三國 肌には悪い化学薬品をひっつけました。出っ歯に見せる工夫とか、中国地方の方言のせりふでも苦労しました。

 山岸 田んぼの中に倒れ込む最後のシーンもすごかった。

 三國 あれはね。信州の田んぼが凍っちゃっているので伊豆へロケして、温泉の湯を田に入れましたが、湯気が出なくなるまで待つために、やはり凍っちゃうんです。大変なシーンでした。時間もかかりましたね。 ところで、望月さんの台本はすり切れていました。400回くらいは読んだようです。その影響で「荷車」以後は僕も念を入れて読むようになりました。400回以上も読むと暗記しなくても台詞(せりふ)が全部入るんです。記憶じゃなしに生理的にせりふが出てきます。しかし最近はよく読むとアラの出てくる台本が多いので困ります。

 山岸 まったくそうですね。

 三國 頭の良い演出家は割に直接的な表現をしますけど、薩ちゃん先生(山本薩夫監督)は「荷車」の場合、人間というものに焦点を合わせ、間接的に表現していきました。あれは先生の作品の中でも傑作ですね。

◆俳優生活の中で最も大きく影響を受けた「荷車の歌」

 山岸 薩ちゃん先生は「松川事件」や山本宣治の生涯「武器なき闘い」などリアリスティックな作品が多く「ああ野麦峠」にしてもその部類ですが、「荷車」は一種の抒情性をこめて、深い撮り方をしています。名作です。

 三國 僕にも大きな影響を与えてくれました。直接表現をしないという僕の芝居の中で一番大事にしている部分は「荷車」から受けた影響です。人間が持つ2面性を通して問題を追求する作法を学びました。
 「荷車」の後は「異母兄弟」(家城巳代治監督)に出ましたが、老将軍の役なので、その時に歯を全部抜いちゃいました。

 山岸 三國さんは20年前に親鸞を主人公にした「白い道」という映画を作りましたね。

 三國 ええ。それまでに2度親鸞の台本が持ち込まれましたが、教団の意向などを慮んばかった内容だったため返事をせずにいるうちに流れました。それでチェックなしに作ってみたいと思って結局、自分で脚本・監督・制作もみなやりました。切符は100万枚売るつもりでしたが、70数万枚になり、それで借金を全部返しましたから、ペイできたんでしょう。例えばお寺の2男3男とか若い人が見てくれました。
 この前は新藤兼人さんと一緒に老人問題の「生きたい」(大竹しのぶとの親子役)をやりましたが、新藤さんは日本の映画館は余りあてにしなかったようです。しかしモスクワ映画祭でグランプリをとったので、今後は公民館なんかで上映する全国ローラー作戦を展開する計画です。それを1年間やるとモトはとれるといいます。それで、もう1本撮れますからね。再上映はよいと思います。

 山岸 映画館で興行収入をあげるのは難しい。しかし地方回りの自主上映で少しずつ稼げば結構いけますよ。

 三國 映像は人間の心の中のものを蘇らせる大きな役目を持っていると思います。やはり文化産業だから興行会社もアメリカ映画の亜流みたいなものを作り、ゼニかせぐことに追われていてはいけません。それに米国映画をやっても興業収入の7割は持っていかれるのですから日本の会社はもっと考えなくては。

◆母親は子供のためにも
  映像文化への意識を高めてほしい

 山岸 三國さんの女性観はいかがですか。

 三國 話の続きで、母親としてはもっと考えて、子供に良い作品を見せるという意識を持ってほしいと思います。
 それから僕はもう1度、古代の母系社会に帰るべきだと思うんです。家を支えていく女性の精神的高揚が日本の未来をもう1度再生させる要素になると考えます。そういう運動が少しぐらいは、あってもしかるべきではないかと思うのですが。

 山岸 最後に、三國さんは顔のしわが少ないのですが、食生活のほうはどうですか。

 三國 友人のお医者さんから1日に30種類ほどの野菜を食べなさいといわれ、たくさん食べています。産地から有機野菜も送ってもらいます。おコメは「白い道」で知り合った新潟の農家の方が送ってくれますので買ったことがないのです。ありがたいことです。やはり日本食ですね。ファストフードのハンバーグなどは食べません。
 それから水は東京の水道水がどうも臭いので、安倍川の上流から20リットルのタンクで送ってもらい、それを毎日2リットルほど飲んでいます。健康法はプールで泳いでいましたが、水が汚くて髪の毛が真っ赤になったので、もうやめました。

上映運動の中から女性部員拡大も進む

 ●映画『荷車の歌』のあらすじ

  明治27年日清戦争の勃発から昭和20年の敗戦までの時代を、広島県三次の山村を舞台に描いた作品である。
 女として、妻として、母として風雪を耐え抜いた女の一生で女流農民作家山代巴が、明治・大正・昭和の農村を深くレアリステックに調べ見つめ、主人公のセキと茂市の一生を通して、日本の基幹である農村を近代史的な視野で描いた小説を、映画化した作品である。
 紺の制服網代笠の郵便配達人。村の評判男の茂市に、地主の屋敷に女中奉公していたセキは求婚された。
 田・畑を持たぬ者との結婚に親は大反対で、セキは勘当の身で嫁いできた。
 茂市は月給取りでは身上が出来ぬと荷車ひきになって、荷車の問屋になるんだと目を輝かせた。
 それから茂市とセキの荷車ひきの一生が始まり、セキの女としての苦しみとたたかいたくましく生き抜いた物語である。

 ●自主上映運動とは
 
 非劇場運動のことである。
 テレビも無く映像には縁がなかった山村でも、どこでも、自分たちがかかわって作った映画を16ミリの映写機をかついで出かけ映像文化を広げる運動のことをいう。
 女性部のほとんどの部員が知っていないだろうが、実はこの自主上映運動をおこし、実際にやった日本で最初の人たちが、農協婦人部の「荷車の歌」からだった。この先駆的運動の成功に見習って、以後独立プロ運動の上映方法が一変していった。
 「松川事件」(アメリカC・I・A事件)、「武器なき闘い」‐山本宣治の生涯‐などなど。
 今では多くの映画に「荷車」方式に端を発したこの上映方法が使われるようになった。
(山岸)

 

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(インタビューを終えて)

 三國連太郎こと連ちゃん、山岸こと山ちゃん。これが映画の世界での呼び名である。
 監督山本薩夫は役者の連ちゃんにしても、助監督の山ちゃんにしても先生である。だから薩ちゃん先生と呼ぶ。映画の世界は昔から親が死んでも、その死に目には逢えぬと言われてきた。
 1本の作品につくと命がけに入り込んで他の一切をかえりみてはならぬというような掟が通っていた。
「荷車の歌」は超大作で丸1年かかった作品で春夏秋冬がある。スタッフ・キャストそれこそ総力をかけた作品である。
 この作品で茂市もセキも特に助監督とは深い契りのようなものが結ばれてゆくもので、特にわたしのように生まれる時から蚕棚の下で育ったような、根っからの百姓育ちの助監督は映画界で全く見渡らない。
 助監督の仕事はスタッフ・キャスト平均的には5、60名、場面によっては何百人になるか分からない人達を動かし、面倒を見て、かけずり回り、止まってはいられない仕事である。
 それこそめちゃくちゃに忙しい仕事である。
 「荷車の歌」は全く完全に農村、農家の話。四季の農作業の設定、農家の家の中のたた住まいから、置物、小道具、冠婚葬祭のしきたり、家の中の牛小屋の面倒、草履や炭俵編み、稲架掛けづくり、などなど美術部関係の問い合わせ。セキの万能での田打ち、茂市がラストの牛での代かきで倒れる場面での設定など農家出身の偉力が出た。
 連ちゃんとはその後すぐ、田宮虎彦原作・家城巳代治監督の「異母兄弟」でやはり1年近くの契りがあって、「あゝ野麦峠」ではわたしが企画し、製作に持ち込んで、やはり1年がかった作品で製糸会社足立組の婿社長役で見事な役を演じ、主役である大竹しのぶをいじめぬく、役者でありながら役者を越えた役者で、新藤兼人監督の「生きたい」で娘の大竹しのぶとの、ものすごいぼけ老人役も見事である。(山岸)


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