農業協同組合新聞 JACOM
   

コラム
その他

若月俊一先生を偲ぶ
梶井 功(東京農工大学名誉教授)

故 若月俊一氏
故 若月俊一氏

 “信州の上医”、農村医学会の創設者として敬慕されてきた若月俊一先生が、先月22日、自ら育ててこられ、長らく活動の拠点とされてきた長野県臼田町の佐久総合病院で、96才の生涯を閉じられた。謹んで哀悼の意を表したい。
 “上医医国、其次医人”という古語がある(中国の古書「国語」晋語八)。“現代風に翻訳すれば”、“個人の病しか見えず、薬の匙加減ばかりに気をとられている医者よりも、患者の住む地域社会の抱える様々な問題にまで取り組もうとするのが本当の上医である”ということだという(岩波新書、南木佳士著「信州に上医あり」、はしがき)。
 若月先生が東大付属病院から佐久病院へ外科医として移られたのは、敗戦5ヶ月前の1945年3月のことだが、着任して先生が直面したのは、“山の中からトラックで3時間も揺られて病院に運び込ま”れた盲腸の患者が“痛み始めてから10日もたっていて、完全に手遅れ。手術のかいもなく、肺炎を起こして死ぬ”という現実、或は回虫の卵が浮いているしまい湯に入らざるを得ない“嫁さんのおっぱいに(回虫の卵が)附着して、赤ちゃんの口に入る”ため、“信じられないことですが、生まれたばかりの赤ちゃんから、回虫が出てくるんですよ”という現実だった(引用は島内義行編著「星影凍るとも」創森社刊より)。東大分院時代、工場災害の問題に取り組み、ために佐久へくる前1年近く治安維持法違反容疑で拘留された若月先生にとって、“患者の住む地域社会の抱える問題に取り組”まざるを得ない現実がそこにあったのである。

 演劇活動を通しての医療、健康問題に関しての、或は今日流にいえば食育についての啓蒙活動、“医師会からは「医者が出前するとはなにごとだ」と怒られ”た出張診療を開始、さらに“その場かぎり、おざなりなものになりやすい出張診療の欠陥を是正すべく1959年からは南佐久郡八千穂村で全村保健管理運動を始めるが、この健康管理運動は73年からは長野県下一円をカバーする集団健康スクリーニングになる。
 これらの実践は医療費節減、死亡率低下に大きく寄与することを明らかにして、予防が治療に勝ることを実証、長野県のみならず全国の農協に健康管理活動に取り組ませることになったし、老人保健法を制定(1982年)させることにもなった。特筆さるべき業績とすべきだろう。
 特筆すべき業績としてもう1つ、農村医学会の創設者、その中心的リーダーとして農村医学の確立に努められたことをあげなければならない。さきにあげたような農村医療の現実に直面して、これらの現実が示す諸問題の解決策は、個人的努力の域を超えており、関心ある医師の協同活動として取り組まなければならないと若月先生は考えられたのであろう。佐久病院へ赴任された2年後の1947年に第1回長野県農村医学会を佐久病院で開き、以後、農村医療に関する諸問題を討議する場を組織する活動を続けられるが、その活動は1952年には、県域を越えた日本農村医学会結成として結実する。佐久病院で開かれたその第1回大会で、会長に選ばれた先生は、会長挨拶のなかでこう述べられている。
 “農村医学という学問が果たして存在するかどうか。私たちは、このような質問に対してただ次のように答えれば十分だと思います。現在日本の農村において、医療と衛生の問題が特にうちすてられてあること。その半封建的非文化的、いわばアジア的性格の農村の環境の中において、病気も特殊な形をとってあらわれ、又それに対する対策も亦特殊な形をとってなされなければならぬこと。そして何よりも、現実に広範な農村が貧しく、医療にめぐまれない農民がそれを要求していること。”(「日本農村医学会雑誌」第1巻第1号、南木佳士、前掲書より再引)

 先生が着任された頃の佐久病院は、“公称ベッド数は20だが、昭和19年1月の開院以来、入院患者はゼロ。医師は老院長、学校出たての若い女医、そして外科医の私の3人”(島内、前掲書)という状態で、病院と称してはいたものの実態は診療所でしかなかった。が、今日、佐久総合病院はベッド数1000を超える長野県下最大の総合病院になっている。先生の奮闘が、眇たる診療所を農村医療のメッカである近代的大病院にしたのである。その近代的大病院に、たたみ敷きの来院者待合室があるのを見て、むらのお年寄りも気軽に病院にこれるようにという配慮が、こうしたところにも出ていると私は感じ入ったが、そういう気配りもしながら“医療にめぐまれない農民が要求…している”ことに応え、農村医療の充実に献身的につくされた先生の業績は国際的にも高く評価され、1976年、アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞(地域リーダーシップ部門)が与えられたことを記しておかなければならない。
 先生が農村医療のメッカにまでした佐久病院の正式名称は、長野県厚生農業協同組合連合会佐久総合病院である。農協が厚生事業の一環として経営している病院なのである。この協同組合活動の一環としての病院経営を、先生は高く評価されていた。先生の「農村医療にかけた30年」(家の光協会)の一部を引用しておこう。
 “昭和の初年、第1次大戦後の恐慌の中で、無医村と高い医療費のために、医者にもかかれないで死んでいく農民の窮状を救おうとして、医療組合運動が展開された。この運動を起こし、組織化に献身的な努力をされた当時の産業組合の指導者たちに、私は心からなる敬意を表せざるを得ない。これには賀川豊彦氏らの、いわゆる大正デモクラシー的精神の背景があったからと思われるが、医師会を初め、多くの旧勢力とたたかった歴史は、まことに先駆者的なもので外国にもその例をみない”(225ページ)
 佐久病院の発展・充実、農村医療の確立は、農協厚生事業の発展・充実でもあった。今日、農協厚生事業は36府県厚生連で122病院59診療所、23健診センター、23老人保健施設を持つまでになっている。総合性を謳う農協事業の中でも、“外国にもその例をみない”事業と誇っていい。その協同組合としての医療事業には、一層の充実が文句なしに望まれているにもかかわらず、小泉内閣の財政主導型医療改革は暗い影を落としつつある。第24回全国JA大会議案が、“また、医師の確保等は厚生連にとって、地域医療の確保の面から最重要課題であり、取り組みを強化します”と書かざるを得なくなっている事態がそれである。勤務医よりは開業医が、そして大都市の病院ほど医師等への処遇がいいし、更に研修医制度の改革が、大学病院の医師不足、地方病院派遣医師の呼び戻しを起こし、無医村の再現を心配しなければならなくしつつあるのである。先生もこの事態を憂慮しつつ逝かれたのではあるまいか。
 大会議案に明記したことでもある。農協関係者は“最重要議題”として厚生連組織強化に取り組み、先生に大丈夫ですといえるようにしなければならないのではないか。

(2006.10.2)

社団法人 農協協会
 
〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町3-1-15 藤野ビル Tel. 03-3639-1121 Fax. 03-3639-1120 info@jacom.or.jp
Copyright ( C ) 2000-2004 Nokyokyokai All Rights Reserved. 当サイト上のすべてのコンテンツの無断転載を禁じます。