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コラム
 

豪農の館

 9連休の年末、年始。勤人になってから、こんな長い休みは始めて。この正月休み、浅田次郎の「壬生義士伝」を読み耽り、年末、テレビの再放送に釘付けになった。これは、「新撰組で一番強かった男」・吉村貫一郎の生きざまを描いた物語。
 剣を持てば南部藩の道場指南役。文は、藩校の子らに「盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷(こぶし)は、北さ向いても咲ぐ」、「南部の武士なら、世にも人にも先駆けて、あっぱれな花こば咲かせてみろ」と説く、藩校の助教を勤める。が、いくら文武に優れようと、二駄二人扶持の足軽同心の身分は変わりようがない。
 幕末の頃、東北一帯はよく飢饉に襲われたそうだが、とりわけ「やませ」が吹く南部藩は、連年飢饉に襲われる。背に腹替えられず、脱藩。主家を裏切ったわけでも、勤王でも左幕の志を描いたわけでもない。ただ、愛する家族を飢え死にさせないため。
 また、浅田次郎は貫一郎にこんなことを言わせる。「百姓は米がとれねば飢えて死ぬ。だけど、侍は御禄を賜って食いしのげる」「したらば、侍たるもの、命をかける相手は、お殿様ではなく、おのれらを食わしてくれる百姓領民ではなかろうか」と。いやいや、今の武士たる政治家・官僚に是非とも聞かせたい台詞。
 物語はまだ続く。吉村貫一郎の末子(名前は、父親と同じ)が、組頭の配慮で、越後の豪農に逃れる。当時、新潟蒲原郡には、1千町歩をもつ地主が、斎藤、市島、白勢、田巻、伊藤の5家があったそうだ。今でも、これらの家屋敷は「豪農の館」として、残されている。数年前、この1つ、伊藤邸・「北方文化博物館」を見る機会があった。
 この伊藤家は、江戸時代中期から昭和初期にかけて、7代、200年を越す年月の中で、蒲原平野に地主王国を築いた豪農。物語では、江藤彦左衛門となっているが、この伊藤家に違いない。ここで育った、貫一郎の末子は東大教授、農学博士となり、米馬鹿先生といわれるほど、稲の品種改良に一生をささげ、晩年には、故郷、岩手高等農林で教鞭をとる。
 どこまでが史実か、物語かは分からないが、おかげで、すっかり壬生義士伝、いや、浅田次郎にハマる。願わくば、企業の農業参入、農業特区とやらで、「豪農の館」ならぬ「トヨタの館」、「セブンイレブンの館」などにならぬように、とただ思う次第。(だだっ児)


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