農業協同組合新聞 JACOM
   

シリーズ・どっこい生きてるニッポンの農人(2)

「ゆず」が拓く山村の未来

農協が村人に自信と誇りを生み出した

高知県・馬路村農協専務 東谷望史さん


 人口1200人あまりの山間の村、高知県・馬路村では農協が昭和50年代から農産加工と直売に取り組み、村を大きく変えてきた。伝統的な作物だったゆずを搾汁、ポン酢やジュースなどに商品開発して売り出し、1億円足らずだった年間売上げを今や30億円にも伸ばしている。
 町までのバスは一日に4便。高知空港から車で2時間近くかかるこの村に、最近は訪れる人も増え農協にも村外出身者が希望して就職するなど、移住者も出てきた。村がどう元気を出し人々を惹きつけてきたのか。今回は今年の「農協人文化賞」(一般文化部門)を受賞した馬路村農協の東谷望史専務を訪ねた。


◆故郷に帰り村を見つめた

 「お兄ちゃん 帰ってくる言うたやいか。」
 手に銛と網を持ち水中メガネを頭にかけたランニング姿の少年が、安田川の清流と溢れる緑を背景に口をぐっと真一文字に結んでレンズを睨んでいる。土佐弁のコピーはこの少年のせりふだ。迫力ある文字が写真の上で大きく踊っている。
 数年前、東京の電車内に貼りだした素朴で多くの人の郷愁を誘った馬路村農協のポスター。しかし、農協が開発したゆず加工品の写真は片隅に載っているだけ。その下には小さな文字で「コツコツがんばる馬路村農業協同組合」とある。
 他にも村の子どもたちをモデルにしたポスターを数多く打ち出し、県内ではテレビCFも放映されている。
 モノではなく人と村の風景を前面に出したデザインは、懐かしい、気持ちがほっとする、などと県内外で評判だ。
 「うーん、しかし、デザインだけでは売れんからね」と、農協専務の東谷望史さん。確かにその通りだろう。口調から手探りでこの村の農産物を「コツコツがんばって」売ってきた先駆者としての自負が感じられた。


 高知県東部の山間地にある馬路村の面積は165平方キロメートル。だが、96%が山林だ。農協や加工場などがある安田川沿いの村の中心部に立つと、どこを向いても急傾斜の斜面が迫る。見上げるとその山々に空が切り取られたようだ。
 かつては林業の村で、珍しく農協にも製材場があるほど国有林野事業が盛んだったが、今では営林署も撤退した。
 農業は急斜面を切り開いた棚田での米づくりと、そしてゆず栽培。昭和40年代に減反が始まるとゆず栽培は拡大した。しかし、どこも零細で専業農家はいなかった。
 昭和27年、東谷さんは村の中心部からさらに9キロほど奥に遡る、5戸しかなかった土川という集落で生まれた。高校卒業後、村を離れ高知市内のスーパーに勤める。食料品が担当だった。が、2年後、「やはり村に戻りたい」と考え始めたころ、馬路村農協が職員を募集していること知り応募。「補欠だった」が採用された。
 農協マンとしてのスタートは購買事業担当。6年を過ぎたころ、組合長に営農指導を担当したいと直訴し、営農販売課に配属された。この転機がゆずとの付き合いの始まりとなった。

◆まるでテキヤのような日々

東谷専務
東谷専務

 もっとも最初は営農指導に力を入れるべきだと考え営農指導員をめざした。しかし、零細な農家ばかりで専業農家はおらず、営農指導員として農家を支援しても自立できる農家をつくりだすことは難しいという現実に気づかされる。
 考えたのは、自分がこの村の自立した農家の先行事例になればいい、だった。そのためには「農協職員を辞める!」。だが、それを聞いた家族からは猛反対に会う。収入が不安定どころかゼロにだってなりかねないではないか……。
 結局、農協にとどまることにしたが、ここで思い至ったのは組合員の作る農産物をいかに売るかを農協が考えることが村の自立に不可欠だということだった。
 この村のゆずは、玉のまま出荷するのではなく実を搾った果汁として販売する加工用として栽培されていた。そのため地元の人たちが放任栽培というように形のいいものを求めないから無農薬で栽培されていた。これが後に大きな武器となるのだが、昭和55年ごろは、農協が作った小さな搾汁工場で製造される果汁はそう簡単には売れなかった。
 何とか売り先を開拓しようと東谷さんたち販売担当の職員が取り組んだのはデパートの物産展など催事への参加だった。
 近畿から九州まで年間80日から100日間も参加した。
 「農協職員というよりテキヤのような日々やったね」。
 1回の催事はだいたい1週間。当時は農家からの委託販売方式だったため、売れなければ農家に合わせる顔がないとプレッシャーもかかった。しかも催事への参加手数料や売上げの一部戻しなどがかかるほか、現地で販売員を雇うこともあるため「100万円売上げがあっても60万円残ればいいほう」という世界。
 ただ、客との対面販売の経験で今の事業につながる大きなヒントを得た。
 当時、催事場には大から小まで4種類の大きさのゆずの搾汁びん詰め品を並べていた。販売の最前線に毎日立っていて気づいたことがある。小さいびんを買う人は試しに買おうという初めてのお客さん、一方、重くても大きなびんを買ってくれる人はリピーターに違いない……。ここに気づいただけではない。
 「よし、それなら経費はかかるが大きいびんを買ってくれるお客さんには無料配送しようや。そうすればリピーターのリストを農協が直接手に入れられる」。
 狙いは農協による消費者への通販の立ち上げだった。結果として催事場からの無料配送サービスで3000人分の馬路村の「ゆずしぼり」ファンリストを集めることができた。

◆通信販売で事業伸ばす

 そもそもゆずを搾っただけの「ゆずしぼり」は原材料比率が100%に近く、価格もそれほどつけられない商品だ。だから、卸業者への販売という通常の流通ルートでマージンを要求されればとても利益は出ない。また、食品加工メーカー相手では、原材料としてただ同然の値段でしか考えてもらえない。
 この現状に唯々諾々と従っていたのではとても村の自立などできないと考えていた。「ところが農協という組織は流通の仕組みを持っていない組織やな、とつくづく思った。組織を通じた販売といっても行き着く先は市場から原料メーカーへか、せいぜい身内での割当販売。市場出荷は楽かも知れんが、いつ切られても不思議ではない。けれど消費者から直接支持されればずっと継続できる」。
 東谷さんが農協の販売機能をこう冷静に見るのも数年間であれ都市部のスーパーで働いた経験があるからだろう。時間はかかるがこうして消費者への直接販売体制を中心にすることにした。

◆ゆず買い取り制と新規商品開発へ

 もうひとつ東谷さんが課題と考えたのが新しい商品開発だ。実はゆずの搾り汁だけの市場はそれほど伸びないということが実績からもほどなく分かった。
 一方、ゆずの搾汁で大量に皮が出る。販売が伸びれば伸びるほどそれは増えていった。農家のなかからもこれを商品化できないかという声があがり、ゆずの佃煮やジャムなどの加工品開発を考える。
 ところが、立ちはだかったのが理事会の壁。新しい加工場を作る計画になかなかゴーサインが出なかった。結局は了承されたが東谷さんは「実績を挙げなければこれからも新規商品開発は簡単に了承されない」ということを肝に銘じ販売に一層力を入れた。
 デパートの物産展や高知市内のみやげもの店などでの販売と合わせ、通販に本格的に取り組んだのは昭和55年ごろからだが、当時はまだコンピュータも導入されておらず、電話での注文をメモしそれを手書きで伝票にしていくという作業が必要だった。
 それでも当初は1億円だった売上げが2億円に倍増、さらに3億円になったときにようやく黒字に転換した。その時点で初めて理事会の理解も得られ商品開発のための投資が認めれるようになってきた。
 販売実績が上がってくると農協としてもゆずを農協の加工事業の原料として農家から買い取る制度に切り替えた。これで存分に試作品を作るなど商品開発に力を入れることができるし、利益が上がれば農家には特別配当のかたちで還元することになった。

加工場は山の中。ヒット商品が続々と宅配便のトラックで都会へ運ばれている。
加工場は山の中。
ヒット商品が続々と宅配便のトラックで都会へ運ばれている。

◆身近な食文化と新鮮な発想で

ごっくん

 昭和60年代に入ると馬路村からは新しい商品が続々と誕生する。そのキーワードは「季節」にあるようだ。
 収穫期に一斉に搾汁工場で搾った汁は貯蔵され、さまざまな商品になっていくが、農協としては年間を通して売れる商品を開発する必要があった。
 土佐にはカツオをはじめ海の幸が豊富。この海の幸のカツオだしとゆずを組み合わせて、鍋物のタレとして開発されたのが「ゆずの村」だ。
 当時、大手食品メーカーがポン酢を開発し消費者に浸透し始めていた。普通ならそのメーカーに原料としてゆずの搾り汁の売り込みを考えるだろうが、東谷さんに言わせれば、「それはつまらん、大手メーカーが新しい市場を開拓してくれたのだから自分らで開発して市場に参入してしまえ」となる。もちろんこれは冬場の販売対策の柱にするという意味もあった。
 この「ゆずの村」が評判となり、発売後数年たった昭和63年、東京の大手デパートが主催した「日本の101村展」で大賞を受賞した。村に驚きと自信が広がったできごとだった。馬路村が全国に知られるようになったのはこれがきっかけ、全国的な販売にもつながっていく。賞金は賞の名前にちなんで101万円。東谷さんはこれをもとに通販のためのコンピュータシステムの導入を考え、村と農協の理事会を説得して資金を上乗せしてシステム導入も実現させている。
 しかし、喜んでばかりもいられない。基本は天候相手の農業だから大豊作のときもある。だから搾り汁をどう売れる商品にするかは常に課題だ。
 冬場の商品の核が鍋用のタレ「ゆずの里」なら夏に何を売り出すか。ジュース、というのがまず浮かんだ。ただ、濃縮したものを薄めるタイプはたくさん販売されているが「実際は自分で薄めて飲むのは面倒ではないか」と疑問があった。
 そんなときヒントになったのが村内を流れる清流の安田川。今度はこの清らかな水とゆずの組み合わせで商品ができないかと考えた。
 「これだけゆずの栽培が盛んできれいな水もある。子どもたちに安心して手軽に飲めるものをつくるのは親としてもつくらないかんな、という思いもあった」。
 ゆずの搾り汁と水、そしてハチミツだけを加えたシンプルな飲み物の開発を東谷さん自らが始める。仕事も合間をぬって濃度を調節して試作品を作る。飲むのは自分の子どもたち。子どもたちは正直だから「うまい、まずい、飲めん」とはっきり評価を下す。開発まで半年ほどかかって、だんだん味を薄くしていくと大人からも「これは二日酔いの朝にえいわ」などという評価も出てきた。これを商品化したのが「ごっくん馬路村」だ。広口びん入りのこのさわやかな飲料は今や年間700万本も売れる村の顔になっている。

◆都会を追いかけず村をまるごと売り出す

 平成6年、馬路村農協は朝日農業賞を受賞する。受賞理由には、農産加工品の開発、販売とともに、そのユニークなPRが挙げられている。
 ユニークなPRとは冒頭に紹介したポスターのように商品を前面に出すのではなく子どもや村の風景を打ち出していることを指す。
 こうした宣伝を提案したのは東谷さんが出会った県内在住の二人のデザイナー、松崎了三氏と田上泰昭氏だ。村の加工品を宣伝するためのポスターデザインを依頼したとき、現地を見たデザイナーたちは「村をまるごと売り出すしかない」と東谷さんに進言した。東谷さんにとっては発想の転換になった。
 「彼らから聞いた印象に残った話がある。戦後、都会も田舎も同じように発展をめざし時計の針をまわしはじめた。しかし、田舎は都会にだんだんと遅れ、針の進み具合に差が出てきた。でも、もうここらでこの田舎は針を止めてしまおうやないか。待っとったら都会の針が一周してきてわれわれの針と重なる。ゆずを売るために、村を売るというのは遠回りではないかとも思ったが町を追いかけない田舎のおもしろさを送り出そうという気になりました」。
 職員約80人の農協の農産加工品販売高は今や30億円弱。通販の売り上げは半分を占める。村をまるごと売り出す発想と通販で消費者の支持を確かなものにしてきた。宅配業者も競ってこの村に売り込みにくるようになった。今や東京にも翌日に届けられるという。「こんな山のなかでも事業は成り立つ」のである。
 その分、クレームへの的確な対応やサービスの向上も求められている。ただ、マニュアルのない時代から先頭切って事業を引っ張ってきた東谷さんは職員にマニュアルを示す気などない。「自分で判断してお客さんが満足するように考える人間になれ」である。
東谷さん自身も、今後について自信満々というわけではけっしてない。「毎年、同じことの繰り返しではだめ」とゆずの種子や皮を使った商品開発や都会への新たなメッセージを練る日々だ。

◆「やっとたどりついたこの村のこと、忘れません」

 販売額など数字だけが注目されがちだが、東谷さんは村をまるごと売り出すことで村の人々に自信と誇りが出てきたことがいちばん大きいという。
 馬路村の名前を自信を持って言えるようになったのである。それを示す消費者からの一通のはがきがある。はがきには「いつか行きたいと思っていた馬路村に、やっとあの細くくねくねとした道をたどってたどりつくことができました。この村のことは一生忘れません」とあった。
 夜、空をじっと見上げると次第に目が慣れきて星が湧き出すように視界の中で光りだした。天の川も久しぶりに見ることができた。空を見つめるように、東谷さんはきっとゆずをじっと見つめてそのいくつもの輝きを山の恵みとして見いだし、これからも都会に届けるのだろう。

天の機、地の利、人の和
条件不利を逆手に生かす

今村奈良臣 東大名誉教授

馬路村にて 今村奈良臣 東大名誉教授

馬路村にて
今村奈良臣
東大名誉教授

 11年ぶりに馬路村を訪ねた。安田川の清流、天空を切り取る山並み、そして家々のたたずまいなどは全くと言ってよいほど変わっていなかった。変わったことと言えば、営林署が撤退し、その事務所が農協の本所になったこと、貯木場跡に新加工工場が建設中であること、道路が若干改修されたことなどにすぎない。
 初めて訪ねたのは、朝日農業賞の審査委員としてであった。馬路村農協は全国表彰の栄誉に輝いた。東谷望史専務は、その頃は営農販売課長として農協を一手に背負っていた。
 小さな未合併の馬路村農協が成功を収めてきた理由は何か。全国の農協の将来にとって何を提示しているか。馬路村農協の20余年にわたる活動を3点に集約して、熟考を促したい。
 第1、「天の機、地の利、人の和」。馬路という峡谷山村に天が与えてくれたものは、樹齢100年に象徴されるゆずしかなかった。そのゆずも隣接市町村やJAとは異なり、生玉で市場出荷できるような品質のものはきわめて少なかった。急傾斜地で人手も足りず、要するに自然栽培であった。これを生かし、搾汁する、皮も種子も加工して丸ごと生かす。不利を有利に変える。東谷課長を中心に職員一丸となって本紙レポートにあるように加工・販売戦略を着実に進めてきたのである。天をうらむな、地の不利を逆手に生かせ、成功の道は農協職員の知恵と血のにじむような努力にある、ということを教えてくれている。
 第2、「農業6次産業化」のトップランナー。農業の6次産業化とは言うまでもなく、1次×2次×3次=6次産業のことであり、私が最初に世に問うた問題提起であった。いかに加工し、販売し、付加価値を殖やし、組合員・生産者のフトコロを温めるか、ということである。10余年前、この構想が私の頭の片隅に芽生えはじめていたが、馬路を訪ね、その実状をつぶさに観察する中から、農業の6次産業化路線を全国に提起する自信が生まれたのである。馬路村農協や東谷専務は、そういう意味では私の先生である。
 第3、「計画責任、実行責任、結果責任」。「農協の作る計画は絵に描いた餅に過ぎない」とこれまでよく批判されてきた。しかし、馬路村農協の活動の軌跡をつぶさに調べると、計画責任、実行責任、結果責任について徹底して明確にしてきたと言うことができる。加工を始めだした昭和56年の売上げは3400万円だったのが、今では30億円弱。農協職員80名、生産農家170人で実現しているのである。一人ひとりが徹底して自己責任の原則に立脚している。馬路でできたことは、他の条件有利の所でできないはずはない。

(2005.8.18)


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