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《書評》 立正大学経済学部教授 五味久壽
  茨城大学農学部助教授 安藤光義

 
規制緩和と農業・食料市場

     三島徳三・著 日本経済評論社・刊 A5判 2800円(税別)

 北海道大学の三島徳三教授が『規制緩和と農業・食料市場』を出版した。同書は、規制緩和がもたらした農業や食料への影響を分析し、農林漁業の公的規制について提言をしている。今回は2人の研究者に書評をお願いした。
規制緩和と農業・食料市場



考察したい 農業の維持再生産担う主体
立正大学経済学部教授 五味久壽

◆農業への“公的規制” 現代国家になぜ必要なのか

五味久壽氏
(ごみ ひさとし)昭和20年長野県生まれ。東京大学経済学研究科博士課程満期退学。経済学博士。48年より立正大学経済学部に勤務。55年より同大学教授。著書に『グローバルキャピタリズムとアジア資本主義』(批評社)などがある。

 本書は、1993年のウルグアイ・ラウンド合意を受けた1995年1月のWTO体制の発足以降現在にいたる時期を対象として、「農業市場および食料市場の規制緩和のもたらしている弊害を具体的に明らかに」し、それに対する「国民的立場からの公的規制」が必要であることを主張する。
 農業市場学が専門の著者は、(1)農業・農産物に対する規制緩和政策の展開の下での食料品流通の変化や、輸入農産物の輸入検疫と品質表示制度などを具体的に考察し、さらに(2)1995年に制定された「食糧法」の下での米政策と水田農業活性化対策を批判する。具体的事実関係については学ぶところが多い。
 だが、農業経済学の門外漢である評者は、本書の表題に対して2つの疑問を持った。
 第1に、農業に対する国家的社会的「規制」は、現代国家にとって特殊になぜ必要なのか、さらに世界史的に振り返って何であったかである。
 第2に、これと関連するが、「農業・食料市場」という場合、農業は、市場経済的な産業なのか、それとも商品経済(市場経済)とは矛盾して両立しないものか、である。

◆考察すべきは市場の組織者の役割

 第1の問題から見よう。同じく国家的規制といっても、食品衛生のように、国家が公的機関として安全性に関わる問題と、食糧法システムのように、国が生産制限・作付け転換、備蓄保管やMA(ミニマムアクセス)米の輸入に関わる問題とは、本来異質で区別されなければならない。
 前者は、公的機関としての国家が規制の実施主体となる理由が、独自的に――農業以外の産業(例えば電力産業や運輸産業)とも共通に、また対象とする企業形態に無関係に――ある。
 後者は、国家は直接の実施主体とはなりえず、実施過程を地域などに請け負わせてきた歴史的問題である。そして、MA米の輸入は、WTO体制に関わる国家間の問題である。したがって、規制だけでなくその緩和もまた、一般化しては論じることはできない問題であろう。
 近代社会に先行する農業社会では、(中華帝国でもローマ帝国でも、また日本の徳川幕藩体制も)国家は、商品経済を一面で利用していた。その反面では、商品経済が、農地の生産力の再生産を阻害する場合は、それを阻止し「規制」してきた。著者の規制緩和批判が、抽象論としての現代国家に限定され、規制の基盤を「国民的立場」――内容的に種々雑多な部分の消費者としての共通性の寄せ集めに過ぎない――に置くことは、疑問である。
 むしろ農業・食料市場論に徹すれば、市場の組織者としての商業資本・流通資本の役割のより立ち入った考察を必要とするであろう。
 たとえば、日本農業の維持再生産にとって、農協・JA(流通資本であると同時に協同組合であることは矛盾を含む)の役割が、具体的に追及され、それが新たな目標・目的を持った日本農業の組織活動を行う運動体となるのか、それともそれに代わる組織主体を求めるべきかが、あらためて問われなくてはならないのではないか。
 農業社会は、地域的自給自足を社会の維持再生産の基本――その基軸的な役割を持つ農村のコミュニティ――としてきた。
 それは自然発生的な自給自足ではなく、人間社会が農業の価値と意味を絶えず繰り返して再確認し、人工的社会的な努力を行って、維持再生産してきた。環境問題全体が人類史的問題となっている現在、人間社会がその上に乗っている基盤である農業の意義は、歴史的全体的に再評価されなければならない。日本農業の困難の徹底的解明は、日本社会の維持再生産の根底的な困難を問題提起することになる。

◆農業再生に向け生産法人など担い手像の明確化が必要

 これは、第2の問題――農業と商品経済との矛盾――に関係する。本書の方法論――「農業市場問題と国家独占資本主義」から出発し、国家の経済過程への介入による独占資本の延命を説く――は、日本農業を、日本の「独占」の延命と同列、もしくはその系として論じることで、問題を不明確にする。日本資本主義の現在の混乱は、倒産させた方が市場経済的に合理的な(ゼネコンや流通等の)産業が延命し、発展力を残している産業との内部対立を生んでいるからである。
 だが、日本農業は、商品経済的意味での産業ではないが、倒産させるわけには行かない重要な存在である。
 参院選直前の2001年7月28日、「日本経済新聞」が、「並ぶ政策 都市向けばかり/選挙カーも来ない 農村に広がる疎外感」と題した記事を掲載し、「保守基盤」であった農村が、「米価格の低迷や輸入自由化、後継者の減少など逆風下に置かれた」情況から、「与野党問わず都市政策を前面に出し、農村や食糧問題にはほとんど」触れなくなる情況に陥ったことを認めた。補助金や公共事業などを総動員した自民党「社会主義」によって維持されてきた日本農業は、2001年の『通商白書』がいう「アジアの大競争時代」への突入――日本製造業の困難――とともに、いっそう行き詰まった。
 この記事に登場する石川県珠洲市の農業法人社長(42歳、地元農協に勤めた兼業農家だが6年前に仲間3人と会社を設立。自民党員)――「いいモノを作り、消費者に届けなければここの農業は滅びる」、「有機肥料・低農薬でいい米を」と考えてきた地域コミュニティの担い手――は、「担い手がこれ以上減ると」農産物の「質の低下が心配」であるだけでなく、「耕作放棄の荒れ地が」拡大する危険感を語っている。
 農業生産面における現実の困難――耕作放棄の農地を現実に引き受け、農村環境を維持する役割を果たす主体の不在――への対処は、農業法人の積極的位置付けを必要としている。農業や林業は、個人のボランティアだけでは到底維持できないからである。
 しかし、本書は、独立小生産者(家族経営)を日本農業の担い手に神話化して想定し、崩壊しつつある地域コミュニティ再構築の努力や、農業法人の役割を明確に提起していない。

◆WTO協定の“規制緩和” 世界史的分析も今後のテーマ

 ドットコム・バブルの破綻によって、アジア社会全体は再編成過程に入った。円・ドル関係に代わって、人民元・ドル関係=人民元の切上げ問題が顕在化した。中国のWTO加盟は、中国をかつての日本と同様バッシングの対象とするであろう。4000年以上にわたって人工的社会的に維持され、工業や商業との均衡を保ってきた中国農業は、農村地域からの人口流入を通して、工業化のダイナミズムを支えてきたが、三ちゃん化から二ちゃん化が進行し、脆弱性を持っている。中国農業が商品経済と両立しないこと――国家統制を農業保護に使う先進国型農業問題化――が、明確になるであろう。
 中国産葱や椎茸などの緊急輸入制限が示すように、日本農業は、アメリカ農業による大量生産の安物(飼料生産物中心)を相手にしていた時代から、中国の集約農業による農産物を相手にする新時代へ突入した。中国農業との競争は、流通革命の進行とそれによる地域商業や地域コミュニティの崩壊とあいまって、日本農業の最後の砦を崩そうとしている。
 したがって、WTOの「規制緩和」をめぐる日本農業と中国農業との共闘が可能かは、世界史的視野からの考察を必要とする。
 水田農業社会の基軸的農作物である主食としての米を自給することが、日本農業の最後の砦となりうるか否か、その中で、日本農業がどのような旗幟を掲げて、公的資金を獲得し、合理性を持って維持再生産して行くかが、あらためて問い直されている。


長期的視点に立った農業・食料戦略の欠如を指摘
茨城大学農学部助教授 安藤光義

◆近視眼的スタンスの米政策に異議申立て

安藤光義氏
(あんどう みつよし)昭和41年神奈川県生まれ。東京大学大学院農学系研究科博士課程修了、農学博士。茨城大学農学部助手を経て平成9年同助教授。主な著書・論文は『現代の農地相続問題』『中山間地域農業の担い手と農地問題』(共に農政調査委員会刊行)、など。

 「まえがき」で著者自ら「国独資論的視角と運動論をかたくなに貫いている」と記しているように、本書の主義主張は首尾一貫しており、明瞭である。
 特に「農民、自営流通業者、勤労消費者など国民的立場から農業、食料問題の解決をはかる」とするスタンスからの米政策批判は、財政負担問題を脇に置けば(それを国民的合意の下に勝ち取ろうというのが著者の主張であろう)、国家が国民に提示して判断を仰ぐに足る政策提言になっている。
 例えば、(1)「問題は、一定量の米を一定期間、在庫保有する結果として生ずる保管料・金利の増嵩分、さらには品質劣化(または古米化)による売渡価格の低下分を、誰がどう負担するかという点にある(136ページ)」、「民間が備蓄・調整保管を行い、政府の需給調整政策の肩代わりをすることに対する、根本的な問題が伏在している」として「政府が採っている回転備蓄方式をやめ、棚上備蓄方式に切り換え(137ページ)」、政府が米の需給調整とそれを通じた米価の安定に責任を持つべきだという主張や、(2)政府米の大宗が外国産米に侵食され備蓄が需給調整の役割を果たしていないことから「MA米の輸入が継続することとなった場合には、これを海外援助用に回し、国内市場から隔離」すべきだといった主張などがそれにあたる。
 本書は、政府の米政策は食糧管理特別会計の収支をいかにして改善するかという近視眼的なスタンスからのものにすぎず(もちろん政府としてはそのことによって国民の血税負担を減じることができるというのが主張であり、シーリング予算のなかでそこを減じなければ他の農林予算を捻出することができないという事情もあると評者は推測するが)、国家としての長期的な食料・農業政策が欠如しているとしか受け取れないという異議申し立てなのである。
 国民は、その思惑はどうであれ「構造改革」を選択したが、グローバリゼーションの進展の下で国民のための国家としての役割をますます小さくしつつある国家に対し信頼感を喪失してきているというのが評者のみるところであり、本当に求めているのは長期的な視点に立った国家戦略ビジョンの構築ではないだろうか(かつてのそれは「高度経済成長」であった)。
 そのなかで農業・食料政策にどのような位置づけを与えることができるか、そして、農業・食料政策をめぐる論争を1つの足場として国家独占資本主義が持つ「福祉国家」としての性格をいかにして取り戻すことができるかということを検討するための1つの貴重な素材を本書は提供している。

◆一国鎖国主義的な農業保護政策を主張

 しかしながら、同じく「まえがき」で著者が記している「農業・食料問題を資本主義の構造変化の視点からとらえる」というもう1つのスタンスについては、「資本主義の構造変化」の実態認識、特に1985年のプラザ合意による円高がもたらした日本資本主義の構造変化の把握という点で評者と見解の相異があり、それが実を結んでいるかどうかという点については疑問が残る。
 評者は決してグローバリゼーションに諸手を挙げて賛成する立場に立つ者ではないが、評者がみるに、本書はいわば一国鎖国主義的な農業保護政策の主張に終始しており、それが日本という国家全体の戦略のなかでどれだけの有効性を持ち得るか、国民の多数派を説得するに足り得るものとなるかどうかという点については全く自信がないからである。
 その点を明らかにするためにやや長くなるが戦後日本経済の足取りを辿ってみよう。
 第2次大戦後の世界経済は冷戦体制による東西分断という限定つきではあったが、西側世界については、圧倒的な経済力を背景にアメリカが描いた秩序に従って運営され、復興した欧州諸国および日本はその下で高度経済成長を実現してきた。なかでも日本はパックス・アメリカーナから最大限の利益を引き出すかたちで成長を遂げ、昭和40年代には恒常的な貿易黒字を積み上げるまでに至る。
 その後、固定相場制から変動相場制への国際通貨体制の移行と2度のオイル・ショックにより、資本主義諸国はパックス・アメリカーナの下での「成長メカニズム」が機能不全に陥ってしまうのだが、独り日本だけはいち早くME化に成功して巨額の貿易黒字を築き上げていく。
 しかしながら、この成功が、実際には砂上の楼閣となりつつあるパックス・アメリカーナに日本を繋ぎとめ、日本の国家戦略もその域を出ることがないものにしてしまったように評者には思われる。一国鎖国主義的な農業保護政策の前提もそこにあるのではないだろうか。

◆今、「アジア」との関係抜きで生活と農業を論じられるのか

 1985年のプラザ合意による1ドル=150円の円高容認は、そうした認識に根本的な変更を迫るものであった。輸出競争力を維持するため企業は低賃金を求めてアジア諸国に進出したのであり、もはや外国産農産物輸入による資本の費用価格(C+V)の引き下げによる輸出競争力の維持は不可能な立場に日本は立たされている、それどころかアジアからの低廉な製品輸入なくして我々の生活は成り立たないとまで言えるほどの状況に置かれているというのが評者の認識である。
 ユニクロをはじめとして我々の身の回りのものの大半がアジア製ではないだろうか。労働力についても事態は全く同様だろう。茨城県内の野菜農家でも中国人労働者が研修生というかたちで恒常的に導入されており、そうした動きは有機農業を営む農家にも及びつつあるというのが偽らざる現状なのである。
 一国資本主義の枠内で農業問題を論じることはできなくなってきていると言ってもよい。巨額の貿易黒字と強い通貨「円」を有している日本が、農業等一連の産業に対し、一国鎖国主義的な保護政策を採ることは甚だ難しい選択肢のように思われて仕方がない。我々はもはや後戻りすることができないところまで来てしまったのである。

◆課題は農業・食料政策への国民的合意の構築

 とはいうものの、長期的視点に立った農業・食料戦略のない国家戦略はあり得ないということも事実である。
 本書が指摘するように食品の安全性に対する国民の不安は強く、それに対し、輸入農産物・食品に対する検疫体制等をはじめとする各種の規制強化を完全なものにすれば事足りるというわけではない。国家による制度的保証に対する国民の信頼は揺らいでおり、HACCPが何の役にも立たなかったことを証明した雪印事件は消費者の不安を決定的なものとしてしまった。
 その結果、有機農産物の認証を受けていようがいまいが、消費者は自分の目に見えるところで作られた有機減農薬農産物の購入を続けているのである。そして、計画外米の半分を占める産直は、たとえそれが自主流通米という国家的統制を足元から掘り崩すものであったとしても、国民にとって農業は必要であることを示す証左のように評者には思われる。本書が「食料・農業市場」ではなく「農業・食料市場」としている理由はこの辺りにあるのかもしれない。
 とまれ、バブル経済の後始末のために70兆円もの財政支出を強いられた国民に対し「あなたなら金融機関の不良債権と農業・農地という不良債権の救済、どちらに優先順位をつけますか」という問いかけを行えるだけの農業・食料政策を練り上げ、分かり易いかたちで提示し、議論を深めていくことが、時代の転換期にある我々に課せられた課題なのである。


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