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自著を語る  元長野県中学校教員 伊藤昇
満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会

 なぜ長野県は「義勇軍送出全国一」になったのか

満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会

      長野県歴史教育者協議会 著  大月書店、A5判、302頁、
      定価\3,000(税別)


 今なお「中国残留孤児」の肉親探しが続いている。  この背景に、全国で8万余人の15歳からの少年を「満州建国ノ聖業ニ身ヲ捧ゲタウ御座居マス」(義勇軍願書)と誓わせて集め、「満蒙開拓青少年義勇軍」という名の中国侵略移民の先兵にしたてて、大陸に送り込み、あげくの果てに棄民した国家的蛮行がある。
 長野県からは、全国一のほぼ7千人を送出した。この重い事実について、今日までにどれだけの総括と反省がなされてきただろうか。
 その根源において、教育が大きな役割を果たしたのではないか……という問題意識を共有する私たち(小・中・高校の新旧教師9人)は、当時の学校の職員会記録、教育会や役場の記録、開拓団史などを調べるとともに、体験者からの聞き取りを行うなど、義勇軍問題の研究を1996年から重ねてきた。本書はその報告書であり、「教育」とは何か、「教師」とはなにかを、共に考え合う課題の書でもある。
 長野県が「義勇軍送出」において、全国一になった主な要因は「養蚕王国」の壊滅にあるのではないか。農村経済更正運動による「分村分郷移民計画」によるものでもない。
 義勇軍応募状況をみると、初期は急増する軍需産業労働者募集と競合し、後半になると少年航空兵などの募集とも競合するようになって、割当達成は至難の課題となった。そのために「興亜教育」と呼ばれる、児童を洗脳するための教育が特別に重視されるようになった。その「興亜教育」において、全国を率いていたのが信濃教育会であった。
 信濃教育会は1916(大正5)年の総集会で、すでに「海外発展」の決議を行い、その後「信濃海外協会」設立、「ブラジル信濃村」建設、「海外協会中央会」設立などを遂げている。
 信濃教育会は、日本が中国侵略を開始するやいなや、大陸移民こそが「日本文化の歴史的使命」であると会員を口説き、進んで満蒙視察員を派遣して、国策移民政策研究に参画した。そして満蒙研究室を常設し、青少年移民送出計画を模索。やがて一般開拓団の中核としての青年移民に次いで、大量青年農業移民の養成と送出、さらには義勇軍が創設されると、小学校高等科2年生からの応募に並々ならぬ熱意をみせた。
 やがて郷土部隊編成方式が案出される。これは高等科2年生を主対象とする志願予定者の拓務訓練の実施や、部隊幹部の選考など、義勇軍の編成には都市教育会が責任を負うというもので、第2次5カ年計画の全国的な基本方針ともなった。
 また、県下3千人の教職員を集めて、信濃教育会臨時総集会・興亜教育大会を開催するなど、拓務省の諮問に率先して応えた。
 満蒙研究室を改称した大東亜研究室は、教育参考館兼東亜研究資源館の建設、興亜科教授要目の編纂、教学奉仕隊の派遣、児童(女子)拓務訓練の実施、義勇軍幹部の選考、郷土部隊の編成などを推し進めた。
 「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、いったい何であったのだろうか。「満州の荒野を開拓し、将来は二〇町歩の地主として独立した農業者となれる」と宣伝され、「理想的移民村」の基幹部隊ともてはやされた。
 しかし義勇軍開拓団の入植地の多くは、ソ連国境地帯にある現地農民の既耕地であって、関東軍の対ソ戦略と現地民の反日活動への対処という軍事・治安を任務とする予備軍の役割を担わされ、そして見捨てられた「弾よけのための若い棄民」である。
 多くの若い生命を、言語に絶する満蒙の辺境地帯に送り込んだ信濃教育会の責任は、計り知れないほど重大であるが、今日まで罪の告白や謝罪は全くなされていない。
 新しい世紀を迎えた今、憲法・教育基本法改悪のうごきが急となり、ふたたび子どもたちに命を投げ出すことを強要する教育が企まれている。「青少年義勇軍」という暗くて重い歴史の事実から学ぶ意義は、きわめて大きいと思う。



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