農業協同組合新聞 JACOM
   

特集  食と農を結ぶ活力あるJAづくり −「農」と「共生」の世紀を実現するために−


農山村の新たな挑戦 ―空洞化に抗して(1)

誇りをもって地域を活性化する人たち
都市との交流をキーワードに地域づくりに取り組む

現地ルポ 山形県西村山郡西川町大井沢


 いま農山村全体に「空洞化」が広がってきているといわれている。なかでも中山間地では「限界集落化」が進み集落機能が後退しているとの指摘もある。しかし、そうした流れに効し、自らの力で誇りでもって地域を再生・活性化している人たちもいる。本紙では、昨年の新年特集号(1965号)と第24回JA全国大会特集号(1989号)で、そうした人たちの活動をレポートしてきた。今回は、都市との交流をキーワードに地域づくりに取り組む山形県西川町大井沢に取材するとともに、いままでのレポートの概要を改めて掲載し、小田切徳美明治大学教授に、これらの実践から学ぶことを分析してもらった。

山形県西村山郡西川町大井沢

◆産業が変わり人口が減少

 山形市から国道112号線を路線バスで鶴岡方面に約1時間半、寒河江川沿いに遡ると西川町の中心部に到着する。そこから車で国道を走り、平成2年に完成した寒河江ダムによって作られた月山湖をほぼ半周して寒河江川上流に向かうとめざす大井沢地区に入る。山形市を出るときは曇り空だったが、大井沢に入ると小雪が舞い、路肩に除雪された雪が積まれ、冬の厳しい自然環境をうかがわせる。
 西川町の最奥に位置する大井沢は、北に信仰の山としても知られる湯殿山・月山、南に峻嶺な朝日連峰を望み、清流日本一にもなった寒河江川上流沿いに8つの集落が点在している中山間地域だ。
 旧大井沢村など4村が合併をして西川町が誕生した昭和29年に1500人あったこの地区の人口は、45年には900人に、そして現在は315人(116戸)にまで減少した。西川町議会議員で大井沢の区長をしている佐藤征男さんは「かつては中学を卒業すると山に入って働いたが、昭和30年代以降はみんな高校に行くようになり、卒業しても戻ってこなくなった」という。春には山で伐採の仕事をし、夏は養蚕、そして冬には炭焼きをしていたが、炭は化石燃料にとって変わられ養蚕も林業も衰退し「産業が変わった」ことが、人口減少の大きな要因だという。
 川沿いの平坦部には水田が広がるが、標高が400mあり、冷害も多く農業でも安定した収入が見込めないこともある。林業が衰退し山の手入れをしなくなったために、ワラビや山菜などの副産物もなくなった。

◆民宿やキノコ栽培で「3キ」意識を変える

 そのため住民の間に「クドキ・ナゲキ・ボヤキ」の「3キ」意識が広がっていった。そんな地域の意識を変えようと昭和46年に「ふるさと民宿」事業に取り組み22軒が参加。「安くて量の多い山菜料理」で好評を得る。
 ここには明治元年に神仏分離されるまで湯殿山別当の大日寺(現在、湯殿山神社)があり、米沢や置賜方面から湯殿山へ向かう参道だった。湯殿山や月山へ向かう人の4割はこの道を通ったという。そのため26の宿坊があり、外部の人たちとの交流が盛んだった。そういう文化があったから、民宿の事業も比較的スムースに進んだと佐藤さん。
 農業でも条件不利を逆手にとり、昭和50年代から高冷地だからきれいな色のでるリンドウ栽培へ取り組み、その後ユリのカサブランカやトルコギキョウ、ストックの栽培を行い産地として確立していく。また、60年代に入ると国有林の許可を得て、山どりのナナカマドなど花木の出荷を始め、好評を得たので、平成5年からは転作田へのナナカマドの作付けも行っている。
 また、昭和60年には「大井沢特産品製造販売組合」を設立し、原木によるキノコ類の栽培を開始し、町やJAに協力してもらい直売所などの販売ルートを確立。平成12年にはキノコ類が地区一番の農業生産額をあげるまでになり、いまではワラビや月山竹(曲がり竹)なども取り扱い「お年寄りの生きがい」になっている。さらに佐藤さんたちは平成8年に営農集団「大井沢そば作付組合」を設立し転作田でのそばの栽培に取り組む。
 こうした取り組みを進めてきても過疎の流れは止まらず、農地にも荒地が目立つようになる。「ふるさとの風景が荒れていくのをみるほど、寂しく悔しいことはない」と佐藤さん。

◆村の風景一変させた「そば」

 そこで平成12年に作付組合を法人化し「大井沢農作業受託組合」を9名で組織。地区内の荒廃農地15haを集約しそばを作付けする。受託組合は佐藤さんたち3人が農業者年金受給年齢になって抜け、現在は6名となっているが、そば27haのほか枝豆、水稲などで計30haを作付けしている。
 そばの栽培を始めて、大井沢の秋の風景が一変したという。白いそばの花が周りの自然景観とマッチし美しい農村風景を創りだしたからだ。春、雪解けした後田んぼに水を張ると1枚1枚の田にまだ雪をかぶった月山の姿が映り、その景観を見たいと毎年訪れる人もいるという。そうした農村風景も「ふるさと民宿」の支えとなっている。
 さらに「作るだけではなく食べてもらわなければ」ということで、そば打ちの技術を習得。民宿で香りの高い地元産玄そばを使った手打ちそばを提供する「大井沢そば街道」を旗揚げし、そばは山菜とともに大井沢の名物となっている。

◆地域の先頭にたつ「元気を創る会」

雪祭りの花火

 平成2年に寒河江ダムが完成する。「ダムの上流に栄えた歴史はない」といわれるが、これを跳ね返す意気込みをもって開催したのが、75歳以下の大井沢住民全員が実行委員となった住民総出の手作り祭り「大井沢雪まつり」だ。当初は疑問視する住民もいたが回を重ねるごとに盛大になり、平成11年の第10回からは後でふれる「大井沢元気を創る会」の提案で、河北新報などを通じて「学生助っ人隊」を募集。毎回仙台や首都圏から20人以上集まる助っ人隊の力も借りながら開催し、14年の第13回では大井沢の人口の20倍を超える7100人が訪れ、町や県を代表する祭りの1つにまで成長した。
 平成7〜8年ころから、従来からあった「地域づくり計画」が古くなったのでその見直しが地区全体で行われていたが、そのまとめを若い人にやってもらおうということで45歳以下の人たちで「大井沢の元気を創る会」が10年に発足する。元気を創る会は、その後も地域づくりに関する提言を毎年2つづつ行うことにし活動する。雪まつりの「学生助っ人隊」の募集。温泉施設周辺整備計画。大井沢ふるさと応援団設立。県道の草刈りなどを提言。「大井沢区としても、若者の意見として尊重し実際の取り組みに反映している」。
 そのなかの1つに釣った魚を川に返す「寒河江川キャッチアンドリリース区間の設定」がある。自然環境の保全と魚と人間の共存を目的に設定されたものだが、魚の生息数が増え、大井沢を訪れる釣り人を飛躍的に増加させ、民宿の経営にも大きな影響をおよぼしているという。
 こうした活動が認められ、平成14年度農林水産祭「むらづくり」部門で天皇杯を受賞した。

回を重ねるごとに盛大になる「雪まつり」
回を重ねるごとに盛大になる「雪まつり」

◆伝統や文化を未来に引き継ぐ「入村・離村申し合わせ」を設定

雪祭りかかし

 その後も首都圏の中学生を受け入れる「農業体験修学旅行」に取り組み、年間延5600人が来ているなど、「都市と農村の心と心の交流」をテーマにさまざまな取り組みが行われている。
 人口が減少し続けてきた大井沢だが、地元の人情や自然景観に魅かれて移住する人たちも増えている。だが、都市で生活してきた人と、地縁集団的に暮らしてきた人とのトラブルも発生する。そこで17年4月の大井沢区総会で「大井沢の入村・離村等に関する申し合わせ事項」を設定する。時代が変遷しても「大井沢が育んできた伝統や文化・先人の精神などを、確実に未来へと引き継いでいかなければならない」。時代が多様化し移住してくる人や離村する人がいても「これまでどおり大井沢らしく存続していくための基本的な条件整備」として設定したものだ。その内容は町内会、隣組など組織への加入と区費や町内会費などの拠出。集落景観を保全するために住宅の改築・新築は個人の土地でも町内会の意見を聞くなど入村に関して7項目、離村に関して3項目、別荘所有に関して3項目から成っている。
 佐藤さんは「生まれたこの大井沢で、これからも楽しく生きていくために」地域づくりに取り組んでいくという。

◆悩みは後継者問題交流をメインに新たな視点で

 しかし、悩みがないわけではない。後継者問題だ。受託組合の佐藤達郎事務局長は、農業従事者が高齢化しているが後継者がいないことを心配する。受託面積がさらに拡大していくことも考えられるが、受託組合としても後継者をどうするかが悩みだという。
 22軒あった民宿もいまは16軒になった。後継者がいる民宿もあるが、ここでも後継者が問題だと元気を創る会の会員で西川町産業振興課農林係長の志田龍太郎さん。志田さんは「農業も交流をメインに考える」ことが必要だし、元気を創る会の提言も一巡りしたので、「新たな視点と発想」を持つ必要があると考えている。そこから新たな展望を切り拓いていこうという決意だと思えた。

(2007.1.12)


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