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コラム
大宇宙・小宇宙

敵機来襲

 半世紀以上もむかし、旧制中学生だった私は、東京の自宅で毎夜のように「空襲警報」のサイレンで起こされ、眠い目をこすりながら、防空頭巾を片手に、急いで庭隅の防空壕に退避した。
 間もなくB(ボーイング)29の低くうなるような爆音、高射砲の炸裂音、それらの交叉した音が収まったころ、壕の中から周りの様子を探りに出てみると、西も東も空一面真っ赤に染まっている。
 わが家が無事だったことで安堵の胸をなで下ろしても、明日の運命は分からない、そんな日々であった。
 昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍によるハワイの真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、翌17年1月にマニラ、2月にシンガポールを占領、私たちはその戦果に酔っていた。
 4月18日、B25が6機で東京の空などを偵察、一抹の不安を漂わせたが、その後、敵機の来襲も途絶え、ほっとしていた。
 しかしながら、19年7月サイパン島が敵の手におち、大型爆撃機B29の発進基地の整備が進められ、ついに、11月24日、サイパンからB29、80機が東京を襲った。以後、東京ほか各地への空爆が始まった。
 そして、20年3月10日、東京への本格的な爆撃が行われた。334機による下町の過密地帯への無数の焼夷弾投下は、戦災家屋268千戸、罹災人口100万人、死者84千人、負傷者数知れずという惨事となった。
 それまで戦争は、遠く中国大陸か、南方と思っていた内地の人々も、いきなり戦禍の真っ直中に放り込まれた。
 次の東京への大空襲は、4月13〜15日の延べ692機によるもので、271千戸の焼失、被災者667千人、死者2400人に達した。前回の経験があったためか死者はずっと減少している。
 3回目の大空襲は、延べ1064機による5月24〜25日のもので、229千戸が被災し、858千人が焼け出され、4400人が亡くなっている。
 主な場所を焼き尽くしてしまったせいか、東京への大空襲はここで終っているが、約3年の間に、東京への空襲は合計106回、延べ6733機が来襲し、823千戸が燃え、306万人が被災し、96千人の命が失われている。
 空爆に曝されたのは東京に限らない。主な都市だけでも69を数え、死者は42万人に達する。
 なかでも20年8月6日の広島に対する原爆投下は、罹災人口40万人に対し、うち半数の20万人が亡くなっている。8月9日に同じ原爆に襲われた長崎は14万人の罹災者に対し、死者74千人となっている。生き残った人も、その多くが原爆症に悩まされている。
 東京の罹災人口306万人に対し、死者96千人という数字に比べて、原爆による惨禍の痛ましさを物語っている。
 空襲を受けた主な都市69の破壊率を見ると、1位富山95・6%、2位福井86・0%、3位徳島85・2%、4位福山80・9%、5位甲府78.6%と中都市が壊滅的な打撃を蒙っている。
 それに対し、罹災家屋が多いといっても、市域が広いので、いわゆる6大都市の破壊率は、横浜の57・6%を筆頭に以下、神戸55・7%、名古屋40・0%、東京39・9%、大阪35・1%、京都0%と意外に低い。
 文化遺産の多い京都は、知日派のアメリカ人の進言で戦災を免れたといわれているが、20年1月16日に1機来襲、民家316戸が罹災しており、その後もう一度侵入している。
 (以上はアメリカ戦略爆撃調査団報告書等の資料による)
 8月15日の終戦記念日を迎えるに当たり、戦禍で亡くなられた方々のご冥福を、心からお祈りする次第である。
(MMC)


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