コラム

思いの食卓

一覧に戻る

【秋貞淑】
「すいとん物語」―記念日・記念食

 韓国で会社勤めをしていたときの上司、K課長の話をしてみたい。 ある日、家が近所...

 韓国で会社勤めをしていたときの上司、K課長の話をしてみたい。
 ある日、家が近所であるK課長と帰りのバスで一緒になった。「早いお帰りですね」と挨拶をすると、「今日は、特別な夕食が待っているので。そうだ、うちに来ない?」と誘う。「いや、特別な日になんか…」と遠慮したが、「いいから、いいから」と何度も言われ、断り切れずに付いて行った。
 40代後半であるK課長は、奥さんと小学校の息子2人との4人家族である。何回かお邪魔したことがあり、その日も奥さんは喜んで迎えてくれた。しばらくして食卓に着くと、食卓にはキムチとナムルなどの惣菜とすいとんが出されていた。特別な夕食ってこれか、と意外に思っていると、K課長は、「やけに質素だろう。今日は何日?」と聞く。「6月25日…」と言うと、「そう、6月25日、韓国戦争(日本では「朝鮮戦争」という)が起こった日。うちでは毎年の6月25日は、すいとんを食べることにしている」と言う。
 事の真相は、こうであった。北朝鮮の咸興(ハムフン)が故郷であるK課長一家は、1950年6月25日、戦争が勃発してから、南の韓国に避難することになったが、途中で一家は離れ離れとなり、12歳であったK課長と母親だけがソウルに辿り着いた。3年間も続いた骨肉間の戦争は休戦条約の採決(1953年7月27日)をもって一段落となり、北と南にはそれぞれの政府が樹立され、北緯38度線を境界に両者間の往来は断絶された。K課長母子は、そのままソウルに住み着いたが、ほかの家族は、無事に韓国まで来ているのか、北朝鮮に残ってしまったのか、それとも戦時下で不幸な目に会ったのか、百方手を尽くして探してみたが、何の消息も得られず今に至っている。
 母子2人は苦労に苦労を重ね何とか生き延び、今は人並みの生活ができるようになったが、生き別れになった家族のことを忘れたことはなく、数年前に他界した母親は、「故郷に帰りたい」ということばを最期に残した。
 K課長は、戦争がもたらした悲劇を絶対忘れまいと思い、戦争記念日である6月25日を一家の記念日とし、北朝鮮にいるとき、そして、韓国で貧しい生活をしていたとき、お腹を満たしてくれたすいとんを食べることにしているとのことであった。
 その日も、子供たちと一緒にすいとんを食べながら、K課長は、戦争の悲惨さ、安否を知らない家族との思い出、訪ねることのできない故郷の風景などを語り聞かせていた。
 私がK課長宅の記念食に加わったのはそれきりであったが、煮干の出し汁に、大きく切られたジャガイモがいっぱい入ったすいとんの素朴な味は、20年以上経った今も覚えている。K課長は、北朝鮮ではジャガイモは小麦粉と並んで大事な主食であるとも言っていた。
 韓国は世界唯一の分断国家であり、分断から50数年のときが流れているものの、休戦のまま、何の政治的決着も見出せずにいる。多くの戦争世代は既に亡くなっているが、その子供や孫までを含め、南北合わせて1千万人に近い離散家族がいる。
 K課長宅の「すいとん物語」は、今も続いているだろうか。否、続いているに違いない。年々分厚くなってゆくその悲痛な「すいとん物語」が、歓喜溢れる転換点を迎える日が1日でも早く訪れることを切に願う。

(2007.10.17)