コラム

思いの食卓

一覧に戻る

【秋貞淑】
母の編み物 ―分け合うこと

 秋が深まり、冷たい北風が吹く頃になると、母は、年中行事になっている編み物を急ピ...

 秋が深まり、冷たい北風が吹く頃になると、母は、年中行事になっている編み物を急ピッチで仕上げてゆく。
 古いセーターなどの解き糸や新しく買い求めた毛糸が、編みやすく巻き直されたかたまりは、蹴鞠のように真ん丸い。
 籠いっぱい入っているそのかたまりを取り出して転がしてみたり、母のいない隙に編みかけの物をいじってみたりと、小学校に入る前から、私も母の年中行事に参加していた。
 新しい毛糸で編んだセーターや帽子やマフラーなどは、決まって新聞や牛乳を配達してくれる少年たちと、バス停で靴磨きをしている子供たちへのクリスマスプレゼントである。余裕があるときは、兄のセーターに新しい毛糸が用いられることはあるが、私の分は、セーターであれ、ズボンであれ、古い毛糸を繋ぎ合わせた縞模様が常であった。
 兄はゼブラのようだとからかったが、私はゼブラのようであることよりも、私に対する母の愛情の薄さが気になった。
 ゼブラになる季節がめぐってくる度、母の愛情に疑いを抱き、憂鬱になった。そして、母の愛情が私に向けられるようにと思い、小学校高学年のある冬休み、新聞配達をする級友に頼んで、配達の手伝いをしてみたものの、1ヶ月も持たずに、お手上げとなった。
 自分の不甲斐なさから逃れたかったのか、私は、どうして私より他の子供を大事にするのか、どうして私ばかり二の次三の次にされるのかと、涙ながら積年の恨みを母にぶちまけた。
 母は、自ら稼がないと生きてゆけない子供たちが置かれている諸境遇を聞かせてくれてから、私たちが彼らと分け合える物は僅かであるが、それを、体を温める物品としてだけではなく、心を暖めるプレゼントとして渡してあげたいんだといった話をし、しかし、母が一番愛しているのは、我が娘だと付け加えてくれた。
 そのときは、母の言葉の全てが理解できたわけではなかったが、自分への愛情を確かめたことで長年の胸の閊えがおりた。
 母のその年中行事がいつまで続いたかは正確に覚えてないが、中学生の頃からは、ゼブラになることもなくなってきたし、私の新しい毛糸への執着も消え去った。
                          *   *
 日本で留学生として過ごしている頃、母から真っ赤な手編みのセーターがクリスマスプレゼントとして届いた。かの昔、いつもゼブラにさせたことが、今も気になっているという文面の手紙を添えて。言うまでもなく、そのセーターは、産毛がいっぱい付いている新しい毛糸で編んだ物であった。それからも、母の罪滅ぼしのセーターは、模様を変え色を変え、数回届いた。
 東京はソウルほど寒くもなく、着膨れするセーターなんか欲しくもなかったものの、母の愛情を疑った我が罪も滅ぼさなければならず、それらを、渋々ながらも年に一度や二度着てあげていた。
 その母が亡くなって、もう十年近くなる。今は、渋々ではなく、母への感謝と懐かしさをかみしめながら、クリスマスシーズンになると、それらのセーターを取り出し、数日着てあげることが、我が年中行事となっている。
                          *   *
 今は分かる。あの理不尽に思えた母の年中行事の真意を。
 心がこもってない物は物としての要は果たしても、相手の心に感動を与えることはできないし、余るから捨てるよりましだからといった効率主義からの施しは、ややもすると相手の自尊心を傷つけ兼ねないことを。

(2008.12.10)