コラム

思いの食卓

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【秋貞淑】
お弁当物語

-家族と社会への愛情が詰まる-

 夫の要望あって、毎日、お弁当を持たせている。
 何を食べようか悩むことや店先で順番待ちをすることが煩わしいし、コンビニなどの弁当は、揚げ物が多くて胃もたれがするとの理由から、「愛妻弁当」を好むようだ。

 夫の要望あって、毎日、お弁当を持たせている。
 何を食べようか悩むことや店先で順番待ちをすることが煩わしいし、コンビニなどの弁当は、揚げ物が多くて胃もたれがするとの理由から、「愛妻弁当」を好むようだ。
 たまに、「毎日お弁当じゃ飽きないの」と尋ねると、「いや、不思議に家の弁当は飽きないんだよね」との返事。先日も、「今日は、暑いし、おかずもろくなのがないから、冷たい麺でも食べたら?」と勧めると、「大丈夫、おかずは何でもいいから弁当を頼む」とのこと。
 そこまで家の弁当が好きなら、作り甲斐がないわけでもなく、こちらも頑張るしかない。しかし、ついつい頑張り過ぎて、「遠足じゃないんだから」と言われたり、「ご飯が多過ぎる」、「おかずが多過ぎる」などのクレームがあったりする。
                           *     *
 かの昔、私も母親に「お弁当のご飯が多過ぎる」という文句をよく言っていた。しかし、何度言っても、ご飯の量は一向に減らされず、「どうして、人の言うことを分かってくれないんだろう」と、お弁当箱を開ける度不満に思った。だが、お弁当を作る身になってみると、「わかってくれない」のは、母ではなく、自分であったことがわかる。
 今とは違って、お腹いっぱい食べることもままならぬ時代であったのに、母のお弁当は、一度もご飯が足りないという思いをさせてくれなかったものの、当時は、それに気付かなかった。
 そんな私ではあったが、おかずへの不満を口にしたことはなく、煮干の佃煮、黒豆の煮物、ジャガイモ炒め、それにキムチといった、どこの家でも似たり寄ったりである定番のおかずを、それこそ飽きることなくよく食べていた。とはいえ、一部の級友が自慢げに広げるソーセージ、卵焼きなどのおかずを見て、羨ましい思いがしなかったわけではない。
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 いつか聞いた30代の日本人の友人のお弁当の思い出話。
 母親が年取ってからの子である彼女は、お弁当のおかずがいつも煮物類ばかりであって、若い母親を持つ級友たちの可愛くてカラフルなおかずとは対照的に、地味な茶褐色のおかずが恥ずかしく、たまには、お弁当をわざと忘れ、コンビニなどのサンドイッチを買っていったそうだ。
思うに、その年季の入った母親の煮物は、さぞかし美味であったろうに。私をはじめ、「親の心子知らず」といったお弁当をめぐる物語の一つや二つ、誰しも持っているに違いない。
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「愛妻弁当」という日本語は、「愛妻家」同様、皮肉のニュアンスがあり、好きではない。「妻の弁当」のみならず、「夫の弁当」、「親の弁当」、「子の弁当」、そのどちらであれ、それには、お弁当を詰めてみた人しかわからない愛情が詰められる。たとえそれが喧嘩した翌日のお弁当であっても。顔を合わせての食卓とは違って、お弁当は、その作り手と離れた所で、作り手の温もりを伝えてくれる、よきメッセンジャーの役割を担う。
 のみならず、昨今、問題になっている食の安全性、回復の兆しの見えない経済の状況、それに増え続けるゴミ問題など等を鑑みても、家のお弁当の持つ社会的貢献度は看過できない。

 

(2009.09.02)