コラム

吉武輝子のメッセージ JAの女性たちへ

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【吉武輝子】
七十の手習い

 新聞のコラム欄を読んでいて、人間のあまりのケチぶりに腰を抜かしてしまったことが...

 新聞のコラム欄を読んでいて、人間のあまりのケチぶりに腰を抜かしてしまったことがあった。かなり昔のことなどでコラムを書かれた方の名前も、正確な内容も少々曖昧模糊となってしまっているが、書き手は脳細胞の研究を行っている大学の教授。ともかく人間は折角豊かな能力才能に恵まれて生まれてきているのになんと、その2割も開花させることなく死蔵したまま人生の幕を閉じると書かれていたその一文を読んだとたんに、腰をぬかさんばかりに驚いてしまったのである。
 だが眠れぬままにあれこれ考えながら、布団のなかで闇を見つめているうちに、突然、長寿社会に生まれ合わせたことの喜びが心の奥底から突き上げてきた。
 持って生まれた能力、才能の2割も花開かせることなく、残りの8割はまるでどぶに捨ててしまうようなそんな粗末な生き方をしてきたのは、人生五十年時代のお話。前にも書いたが、人生五十年時代は言うなれば社会が強制し続けてきた役割時代。平時は男は職業人、女は家庭人、わたくしの生まれ育った戦時中は役割規制がもっと厳しくて、男は強い兵士、女は銃後の守り手。男女共々強制的な役割に不必要とされている能力・才能は「女のくせに」「男のくせに」と切り捨てられていたのだから、自分自身がどんなに優れた能力・才能を持っているかを知ることなく死なせられていたと言っていいのではないか。
 だが取りあえず、戦後64年間は平和憲法のおかげて、男女共々世界一の長寿者。男の人たちも定年後の60歳以降は、職業人という役割から解き放たれて、固有名詞を持った人間として生きる時代をたっぷりと享受するようになってきた。女の方が子供が少なくなったおかげで、男性よりもはるかに早く、自分探しに努力するようになったのではないか。人生百年時代の到来の先駆者は女性じゃないかと自覚したとき、それこそスキップ気分を満喫しているわたくしがいたのである。
 スポーツ選手を見ても分かるように、筋肉は嫌でも衰えてくる。目だって耳だって使いすぎれば疲れがどっと出てくる。しかしありがたいことに脳細胞は使えば使うほど生き生きと息づいてくるのである。と学者から聞かされたその日から六十の手習いならぬ、七十の手習いを始めたのである。
 なんと70歳で歌手デビュー、同じ年にパソコン、73歳からミュージックベルの奏者たらんと志してなんと、26歳の柿本愛さんを師と仰いで猛特訓。歌手デビューの道を開いてくれたのは今はくも膜下で倒れて懸命にリハビリにはげんでいる小林カツ代さん。2000年4月15日に夫が急逝、うつ状態だったわたくしに「神楽坂女声合唱団をつくったの。輝子さんは朗々たる声を出すからアルトで門戸がはれるわよ」とほめられ好きを知った上で、上手にのっけてくれたのである。おかげで、まる50年間音楽とは縁のない生活を送っていたのに、おなかのそこから声を出して歌い、なんと初見でも音譜が読めるようになったではないか。パソコンは夫の死の嘆きを飛び越えるために、ちょっぴりハードルを高めにしてまる1年間せっせとパソコン教室に通い、ありがたや卒業証書までちょうだいしてしまったというわけ。
 合唱団で「星に祈りを」を何人かで、ミュージック・ベルで演奏したとき、この道のパイオニアの上野陽子さんが「輝子さん、手首が柔らかくて音が本当にきれい」のほめ言葉にほいとのって始めたのだが、驚く無かれ、77歳になった今「アメージング・グレース」「宵待草」「夕焼け小焼け」「ふるさと」をあざやかに振ってのけられるようになったではないか。今はわたくしの大好きなキムタクの「世界に一つだけの花」の猛特訓中。キムタクと共演できたら嬉しいな。
 ほめられてのる心の柔らかさを持っている女性なら、百の手習いだってなんのその。やっぱり長生きの恩恵ってありがたいなぁ。

(2008.03.25)