コラム

吉武輝子のメッセージ JAの女性たちへ

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【吉武輝子】
目を大きくひらかなくては

 夜仕事をしていたら、FAXがことこととなった。相手は9年前に海竜社から出版した「置き去り 残留日本女性の六十年』をかきあげるために、サハリン、そして韓国の取材に同行してくださった金成良克、清子夫妻の妻の清子さんだった。

 夜仕事をしていたら、FAXがことこととなった。相手は9年前に海竜社から出版した「置き去り 残留日本女性の六十年』をかきあげるために、サハリン、そして韓国の取材に同行してくださった金成良克、清子夫妻の妻の清子さんだった。夫の良克さんはわたくしより7歳年下だが、昨年の12月24日、クリスマスイブに教会でハレルヤコーラスの指揮をしている最中に、心臓麻痺で急死された。
 「クリスチャンにとっては最高の死でした」と涙ぐみながらでも、そう信じてきっぱりと電話で夫の死を伝えてきたのは清子さんだった。
 実を云うと『置き去り』の取材をしている間、何か不気味なものに命をねらわれているような思いに突き動かされててね、ともかく、もしわたくしが死ぬようなことがあったら、サハリンー旧樺太に望郷の念を抱きながら60年生きている人たちの人生が完全に置き去りされてしまう。日本の国策に従って満もう開拓団に行った人たちの存在は明らかになっているが、東北の貧しい農民が国策に忠実に従って樺太に渡ったことを、そして多くの女の人が取り残されてしまっていることを国は認めようとはしなかった。かって樺太で暮らし、無事日本に帰国した人たちがその事実を知り、みんなでカンパを出し合って、一年一度一時帰国を実施してきた。そのことを知って以来、残留は中国、地上戦は沖縄と言われてきたことを信じ、戦争は後始末が出来ないことを国民に知られまいと隠し続けてきた歴史的事実に対して目をつぶってきたことを恥じ、懸命にサハリンの女性たちの聞き書きを続けてきたのだった。
 だから命がねらわれていると実感するようになったとき、遺書代わりとの思いも強かつたのである。金成さんご夫妻の介助のおかげでたっぷりとサハリンの残留日本女性に聞き書きをさせていただいて、帰国した後、韓国の夫と韓国に永住帰国した日本女性の取材も完璧にさせていただいた。
 3月末に枕になりそうな分厚い『置き去り』が完成。5月30日に落合恵子さんたちが実行委員会をつくりクレヨンハウスで出版パーティを開催してくださったの。ありがたいことに300人以上の方々が参加してくださった。もちろん金成夫妻も出席してくださり、いっぱい写真を撮ってくださいましたっけ。
 わたくしの命をねらっていたのは大腸癌だった。どこかでわたくしはさよならパーティと思い定めていたが、土俵にかかとで踏ん張る底力があるのでしょう、大腸を切るとき、リンパ節を30近く取ったその中の4つに転移していたので、レベルは4と高かったのですが、遠隔転移がなかったので、抗ガン剤の治療もなく、早々に退院ができたのです。今も半年に1回は検査に行っている。そんなことで「置き去り」の取材の細々した事柄はすっぽりと抜け落ちてしまっている。
 清子さんのFAXには「韓国で取材から帰ってホテルのテレビを見たら同時多発テロのシーンが映っていました。最初はドラマだと思いました。あれから8年たったのですね」と書かれていたんですよ。そうだった、あの日は9月11日だった。テレビをつけたら2つのビルに飛行機が突っ込んでいくシーンが、繰り返し繰り返し映し出されていましたっけ。清子さんと同じで、はじめはSFの一こまかと思ってしまった。外が騒々しいので覗くと、ホテルの前がアメリカ軍の駐屯地。韓国の軍隊が周りを取り囲み、銃身を市民に向けているんですよ。アメリカの飛行機がすべて欠航とのテロップが目に入ったとたん過呼吸になってしまった。考えたら大韓航空のチケット持っているんだから帰れるのに、ことばの知らない国に取り残されることの怖さに震え上がっている私がいたんです。あのテロのおかげで21世紀は戦争の世紀になっちゃった。やっぱり大きな目で政治をしかと監視しなくちゃって、あの日しみじみ思ったものでしたよ。

(2009.09.29)