農政・農協ニュース

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この町はどうなるのか? 先行き見えない被災地 家族は離れ離れ―津波と原発事故  南相馬市の住民の声

 東日本大震災では、地震と津波の被害に加え原発事故のために避難生活を余儀なくされるなど、復興はおろか復旧のめども立たない地域も多い。福島県の南相馬市もそのひとつだ。
 震災後、実家のある南相馬市に入った際の写真を本紙に提供してくれたフリー編集者の佐藤聡さんは1960年(昭和35年)生まれ。今、50歳〜51歳になる同級生たちが地元でさまざま仕事に就き復興をめざしているという。仕事でも地域でも中核の世代だが、高齢の親を抱え子どもは中高生という世代でもある。それゆえにこそ「中心となって復興を引っ張っていかなければ」と連絡を取りあっているという。農業に直接関わっているわけではないが「あの田んぼの風景は戻るのだろうか......」と長年暮らしてきた地域への不安を募らす。東北で生活してきた彼らに今の思いを語ってもらった。

◆一気に暮らし奪った巨大津波

 佐藤聡さんの実家は南相馬市の烏崎地区。太平洋に注ぐ真野川の河口近くで海からは50メートルも離れていない。
 津波で地域は壊滅した。一人で暮らしていた母親からショートメールが届いたのは2日後。再会した母親の話では、地震の直後、一旦は外に出たものの、家のなかを整理しようと戻った人が多かったという。
 そのうち3メートルと予想する津波警報が出た。第1波、第2波が来たが、それほど大きくはなかった。そのため高台に避難した人もいたが、男性たちのなかには海に様子を見に行く人もいたという。そこに地震から約50分後、最大の波が襲ったという。
 高台から見ていた母親から佐藤さんが聞いたそのときの様子は、インターネットに投稿されている南相馬を襲った巨大津波の映像そのものだった。記者も確認したが、そこには海岸の松林のはるか上から海水が一気に押し寄せてくる映像が記録されている。
津波と原発事故  南相馬市の住民の声 「あーっ、と言っているうちに海水に覆われたといいます。まさに一発の波で無くなった、ということでした」と佐藤さん。
 津波は海岸から3キロ以上離れた国道6号線で止まったが、農地には家、船などが流れついた。地震から1週間後のその光景を撮影した写真を「ここは田んぼでした」と説明されても、海にしか見えなかった。
 佐藤さんの実家がある集落は140世帯ほど、400人ぐらいがいるはずだという。だが、母親が車で逃げた実家裏の高台にある地域指定の避難場所に集まったのは30人ほどだったという。実家は昨年、耐震リフォームをしたばかりだった。今は佐藤さんの妹が暮らす秋田県に身を寄せているという。

◆風評被害で仕事がストップ

 南相馬市は今、4月22日の政府の決定で、福島第一原発から20km圏内の警戒区域、隣の飯舘村と同じ計画的避難区域、緊急時避難準備区域、そして区域設定をされなかった市北部地域の4つに分断されてしまっている。
 古小高浩信さんは原町駅近くで菌床シイタケの原木製造会社に勤めている。
 3月11日の大地震では工場周辺には地割れが起きたが工場そのものは無事だった。妻の実家も含め家族は全員無事。
 しかし、原発事故が発生、避難指示が混乱するなか古小高さんの両親と子ども2人、妻とその両親、弟の計7人は市が用意したバスに乗って新潟県に避難した。現地では民宿で1週間、その後、小千谷市の総合体育館へ移り、さらに地元食品メーカーの寮を借りて避難生活をすることになっているという。
 古小高さんは原町に帰り、震災翌日から消防団活動に加わった。告げられた仕事は「遺体発見」。「救出など考えられるような状態じゃなかった」。
津波と原発事故  南相馬市の住民の声 1日約10体ほど発見した。ただ、がれきの量は大量で「半端なものではなかった」ため、重機を持たない消防団の捜索活動には1週間ほどで限界に。その後の捜索は自衛隊による作業が始まってからになったという。
 一方、勤務先の工場は稼働し菌床しいたけの原木用おが粉の製造も再開したが、出荷しても返品される事態になった。理由は原発事故による風評被害。「福島産」だからと返品されてきたのだ。工場も1、2日稼働しては休みを繰り返すことになった。
 そんななか高校と中学の2人の子どもたちは、避難先の新潟県での転校を決め、4月半ばから通いはじめた。子どもの将来も考え「どうすべきか、本当に迷っていたのが本音。結論を出すまでに2転、3転しました」。
 不慣れな土地だが子どもたちは新たな生活に踏み出した。しかし、高齢の両親を一人で支える妻からは、電話でのやりとりでかなり精神的にも疲れていることが伝わってきた。
 古小高さんは「町の復興への思いはみんな持っている。ただ将来を判断する材料があるかどうか…」と話し、家族が離れ離れのままでは、と原町での生活に区切りをつけ新潟に向かうことも考えている。

◆「見えないもの」に右往左往

 3月11日、南相馬市の原町第三中学校では卒業式が行われた。式が終わり生徒たちが下校した後に地震が襲った。
 理科教師の佐藤慎治さんによると、津波によって新3年生になるはずだった生徒1人が行方不明になった。多くの家庭が家を失って避難所生活や群馬、新潟などへ避難し、同校160名の生徒のうち4月中旬から100名が区域外に就学した。佐藤さんら先生たちは避難所で子どもたちの相談に乗り、区域外就学した生徒たちには「避難先の学校で適応できているか心配」だと、携帯電話で連絡を取り励ましてきた。
 原町第三中学も4月22日から授業を始めたが福島第一原発から30km圏外の鹿島中の特別教室を借りてスタート。保護者が子どもを原町三中に車で送り届け、そこから鹿島中に移動する。
 「目に見えない放射能に、みんな右往左往させられている」。
 津波被害を受けた海より広大な農地。塩害を除去できたとしても、原発事故による放射性物質の放出で「耕作可能なのか」という思いを地域住民として思うという。津波の被害は大きなショックだが命がある限りは復興しよというエネルギーはある。しかし、原発事故の終息が見えないなか「そのエネルギーがみんなのなかで萎えないか…」とも思う。そうならないよう、この土地で暮らしてきた中学時代の同級生にメールで積極的に情報発信している。「それぞれの場でまた働き暮らせるよう励まし合っていきたい」。

◆商圏を失った商店街

 南相馬市原町商工会議所の指導員、佐々木孝さんから話を聞いたのは4月24日。休日だったが商店主らの相談に応じていた。22日に設定された区分では同地域は「緊急時避難準備区域」とされた。政府が自主的な退避を求め住民が混乱した屋内避難区域指定のときにくらべれば、商店など事業所の営業は可能になった。
 しかし、原発事故で街から人が去り、「売上げゼロ」という商店主も多い。農業の場合は政府からの出荷制限指示という理由があるが、商店に対して「物を売ることを止めてくれ、といわれたわけではない」。だから、政府の審査会で賠償範囲が明確になるまでは損害賠償の対象となるのかさえ不明で、不安が高まっていた。
 これまで商工会議所としては南相馬市の商圏は、北の相馬市から南は浪江、双葉、大熊、富岡まで、そして西は飯舘村までの人口20〜30万人を考えていたという。
 しかし、その多くは警戒区域であり、飯舘村のように計画的避難をしなければならない村もある。その商圏が「そっくり失われてしまう」事態になり、それがまだ続く。佐々木さんによれば今、原町地区に戻ってきたのは3万人。30km圏外の鹿島で1万人だという。
 「この人口で商業が成り立つのか」。

  ◇  ◇

 福島第一原発が営業運転を始めたのは彼ら昭和35年生まれの世代が11歳のときだ。それと同時に広大な海と田んぼを見て育ってきた。
 「その風景ががれきと、打ち上げられた船で埋まった。これからどういう国にするのか、問われていると思う」。
 佐々木さんは商店主らと、行政任せの町づくりではなく自分たちがビジョンをつくることが大事だと話し合っているという。「この地域で生きていくためのあり方」を探っていきたいと考えている。

(2011.05.12)