農政・農協ニュース

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【特別講演会】東日本大震災から1年 震災の教訓から学ぶ 経済評論家・内橋克人氏

 (社)農協協会と農業協同組合研究会、新世紀JA研究会は3月5日、「2012国際協同組合年 特別講演会」を東京都内で開いた。テーマは「東日本大震災の教訓から学び震災からの復興と協同組合の役割を考える」。
 経済評論家の内橋克人氏らを招いたこの講演会には全国からJA組合長や中央会会長、JA全国機関の役職員のほか、生協、漁連などの協同組合関係者、国会議員、研究者ら200人が参加し熱心に耳を傾けた。
 JA福島5連の庄條会長は福島の状況と課題を報告。「福島の農業を再生することが福島の復興とこの痛めつけられた日本の状況から起きあがる原動力になる。何としても協同の絆を構築していく」などと強調した。JA全中の村上光雄副会長は、農協は地域と一体となった組織であることを強調し、国際協同組合員の今年、「小さな協同」を積み上げていく実践も大事だと話した。また、自然災害に備えて被災地支援のための災害対策基金の創設も提起した。

協同組合の力で日本を救ってほしい


◆巨大複合災害への怒り

toku1203140103.jpg 先ほど、庄條会長の、内なる怒りを抑制なされた、終始、穏やかな語り口を崩さぬ、懸命なお話しぶり、私は深い感動とともに拝聴させて頂きました。不条理な被曝にうたれた「フクシマの農」を担う当事者として、恐らくは、お心のなかに何百万倍もの怒りを沸々とたぎらせておられたことと拝察します。
 私たちが生きるこの日本とは一体どういう社会なのか――。庄條会長のお話を伺いながら、代わって私たちがフクシマの方々の怒りを言葉にしなければならないと、再び三度、心に期した次第です。
 あの福島の地から放射線被曝を免れるために幼い子どもを連れて県外に出ることを、政府もマスコミも、何の抵抗もなく“自主避難”などと呼ぶ。いったい、誰が好きこのんで、自ら育った故郷を後にし、見知らぬ地へと逃亡などするでしょうか。自主ではない、不条理な強制に追われ、住み慣れた、愛するふ故郷の地を心ならずも離れゆく人びとではないですか。追い立てたのは誰か。原発安全神話の作り手たち、原子力ムラに居座り、甘い汁をすすり続けた連中。国家、政府、政治家、学者、巨大資本。彼らをそのままに、まるで自由気ままな逃亡者のように自主避難などと呼んで区分けする。被災者軽視の魂胆が透けて見える。余りに人間復興から遠い。このような無神経で鈍感な統治者を許すことなどできるでしょうか。私は“賠償”という言葉づかいにさえ不快感に打たれ、怒りを抑えることができません。


◆「風化」にどう抗するか?

 今回の災害を私は当初から巨大複合災害と呼んできました。地震と津波は天災ですが、原発事故は明らかに人災です。天災と人災が複合した巨大複合災害。もうひとつ加えるなら戦災があります。私は出身地の神戸で二度も大空襲に襲われました。67年前のことです。そして17年前には阪神・淡路大震災で実家が倒壊いたしました。
 阪神・淡路大震災については先日も神戸において東北大震災の悲惨を共有するシンポで基調講演してきたばかりです。いま、あの17年前の惨事を目に収め、肌に感じた人は、もはや神戸市民の3分の1になってしまったといいます。その後に生まれた人、あるいは新たな神戸への転入者がはやくも3分の2を占めているのです。大震災のなか、当時苦闘なさった市役所の職員でさえ経験者はもはや半分しか残っていないそうです。
 そうすると、阪神・淡路大震災からの再生を指して創造的復興モデルなどという言葉が平然と語られるようになりました。17年前、災害に打たれた被災の当事者たちは当時のあり方を「復興ファシズム」と呼びました。被災者が惨事に見舞われ、呆然自失している間に、何があったでしょうか。平時には、住民の抵抗で難航していた都市区画整理事業の一挙なる強行、幹線道路の貫通、復興の象徴と称して建てられた巨大高層ビルの商業施設群、神戸空港…。震災を「千載一遇のチャンス」と自治体トップが明言し、強行されたこうした復興事業、いまやすべてニッチもサッチも行かぬ経営危機の絶壁です。
 けれども、災害の生き証人である当事者は消えていき、命失った犠牲者は声に出して叫ぶこともできず、こうして美化された物語がひとり歩きする。政治が巧みに利用する。
 庄條会長は“風化”を怖れると言われた。今回の大震災、なかでも福島での悲惨を決して風化させてはなりません。しかし、悲しいことにあの阪神・淡路大震災もすでに歴史のなかに足早に駆け込み始めたようにみえます。人間の受けたかくも耐え難い悲痛、悲惨がなぜ風化していくのでしょうか。どうして物語になってしまうのでしょうか。
 ある時、私はさる著名な方との対談で問いかけました。「どうして人間は同じ過ちを繰り返すのでしょう?戦争、災害、飢餓、恐慌…。果てもなく」と。すると、相手の先生がおっしゃった。「それは、人間が死ぬからです」と。悲惨な体験を強いられた当事者、その当人がいつかは死んでしまうからだ、と。いかに記憶し、記録に残そうとも、それだけでは時間に勝つことはできない。太平洋戦争の敗戦から67年、阪神・淡路大震災から17年、世界で戦争は繰り返され、巨大自然災害の災厄を最小にすることもできていません。単なる人間の記憶、壮大な活字の記録、それらもまたいかに非力であることでしょうか。
 人間社会に何が必要なのか。いまこそ、その答えを問わねばならない。戦争も災害も…。私は、大きな犠牲の痛みと悼みのなかで、生き残った犠牲の当事者たちが「生きている間」に、大きな犠牲の痛みの続くなかでこそ、二度と再び悲惨を繰り返さないための制度や仕組みを「社会的装置」として築くことだ、といいつづけています。戦争を再び起こさないための社会的仕組み、たとえば日本国憲法九条はその役割を果たしてきた。戦後67年、私たち日本人は、戦争によって内外の人びとの命を奪ったことがない。
 戦争も人災も、巨大自然災害の犠牲も、それを体験した人が生きている間に、再び同じ過ちを起こさないような社会のあり方を、制度、仕組みとして築き上げる。それ以外にない。それが生き残ったもの、生かされているものの責務である、と。悲惨を風化させないとは、つまり、そういうことではないでしょうか。
 申し上げたいのは、いま、このマネー資本主義の荒れ狂うなか、そういう仕組みづくりの重い役割を担うのはだれなのか。それこそが、皆さん方、“協同組合”をおいてほかにない。被災者の救援、そして社会転換への重大な決意と行動。そこに協同組合の新たな役割を求めるほかに未来への道はない。このひと言を申し上げるために私はここに参りました。

(内橋の講演会の続き、庄條氏、村上氏の講演会はコチラから)
【特別講演会】東日本大震災から1年 震災の教訓から学ぶ

(2012.03.15)