農政・農協ニュース

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誕生物語 第1回【スミチオン(住友化学株式会社)】  人にも環境にも優しく日本農業支えて50年

 農業の歴史は長い。しかしここ50〜60年ほどめざましく発展した時期はないといえるだろう。それは種子の改良から農作物の生長を支える化学肥料、病害虫や雑草から作物を守る優れた化学農薬の研究・開発。そして農作業をより効果的に効率的に進めることを可能にした農業機械をはじめとする生産資材など総合力の結集によるものだといえる。
 そうした生産資材の一つひとつに、研究・開発に携わった人たちの熱い思いと英知が結集されているといえる。そうした人たちの思いを一つひとつひも解き、これから農業にかかわる人たちにそれを伝えていこうというのがこの「誕生物語」だ。
 第1回は、食料増産が至上命令であった時代に、水稲害虫から日本人の主食・米の生産を守るために開発され、その後、水稲だけではなく果樹や園芸作物、さらにはマラリアから人びとを守るためにも活躍し、1962年(昭和37年)の上市以来50年、現在でも生産現場で支持されている住友化学の殺虫剤「スミチオン」の誕生物語だ。

農業からマラリア予防まで幅広い分野に効果


◆食料増産が最大の課題だった時代

 1945年(昭和20年)8月、第2次世界大戦が終わったとき、日本農業は疲弊し食料生産は底をうっていた。第2次大戦に入る前から朝鮮や台湾から食料を移入していた日本だが、戦後の最大の課題は、いかに日本人の主食である米を増産するかだった。
 戦争が終わった翌年の1946年(昭和21年)5月1日に11年ぶりにメーデーが復活し、皇居前広場に50万人が参加するが、5月19日には「飯米獲得人民大会」(食糧メーデー)が皇居前広場で開催され25万人が参集、大会代表が首相官邸に座り込むなどしたため、翌20日に連合軍司令官のマッカーサーが「暴民デモ許さず」の声明を出したが、人びとはそれほど食料(米)を求めていた。そして1948年(昭和23年)2月に「食糧配給公団」が発足。11月に主食配給が2合7勺となる(1)。
nous1209210401.jpg さらに戦争が終わって5年経った1950年(昭和25年)12月に池田勇人大蔵大臣(当時)が「貧乏人は麦を食え」と発言し物議をかもすが、これもまだ食料が不足していたことを象徴するような発言だったといえる。
 そして1953年(昭和28年)には大凶作となり米が大量に輸入される。米が完全自給を達成するのは1967年(昭和42年)の空前の大豊作となった年だった(1445万トン)。

1:「日本史年表・地図」吉川弘館2012年4月1日発行
(写真)
昭和31年ごろの食卓を囲む子どもたち(一般財団法人アジア・太平洋人権情報センターHPより)


◆収穫量を飛躍的に向上させたパラチオン

 この時代、米を増産するための課題はいくつかあったが、その一つにニカメイチュウを主とする害虫の防除があった。この防除に大きな貢献をしたのが、殺虫剤「パラチオン」(独・バイエル社の商品名はホリドール)だった。1953年(昭和28年)に特定毒物に指定され、指導者の指導の下に共同防除で使用することとされていたが、ニカメイチュウなど水稲害虫防除に抜群の効果があったために、指導が十分行き届かないまま全国的に普及していく。
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(2012.09.21)