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【特集 もう一度考えよう! TPP】  「『里山イニシアティブ』はどうなるの?  国際社会への主張と矛盾」 寺林暁良 氏(農林中金総合研究所)

・TPP主要国はカルタヘナ議定書に未批准
・生態系サービスとその衰退
・森林荒廃と森林環境税に学ぶべきこと
・農山漁村への不利益の偏り
・将来を見据えた熟議が必要

 国境の壁をなくして農産物をはじめモノの自由貿易を拡大することは、生物多様性や環境にもその影響が及ぶのではないか。たとえば、遺伝子組み換え農産物が海外から大量に輸入されることになれば、生態系への影響も懸念される。一方で生物多様性の維持は、国際社会の重要な約束だ。実際、昨年、名古屋で開催されたCOP10で日本は、人の暮らしと自然との豊かな関わりの歴史として「里山」を世界に向けて発信した。発信したのはもちろん菅政権である。TPP推進とこれは矛盾する――。

 貿易と環境問題の関係性は、長年の懸案事項の一つとなってきた。輸出用の熱帯林伐採やプランテーション造成は、生物多様性を破壊し、地域住民の生活環境を悪化させる原因とされてきた。また、輸送距離の増加や環境規制基準の低い国への工場移転により、温暖化ガスや汚染物質の排出が増加・拡大することも問題とされてきたのである。
 一方、国際社会では環境保全や持続可能な社会の形成を求める動きも強まっており、WTOでも環境や人権、安全保障などの「非経済的関心事項」をいかに考慮するかが問われている。また、貿易問題を規定する国際環境条約は現在20に上っており、なかには希少生物の国際的取引を規制するワシントン条約(75年発効)や有害廃棄物の越境移動を規制するバーゼル条約(92年発効)のように、貿易を直接規制するものも含む。しかし、環境と貿易の整合性を取ることは容易ではなく、論争が続いているのも事実である。
(イメージ写真=都市近郊の水田風景)
 TPPでは、GATT第20条に準じると規定される以外、環境についての特別な規制はないが、潜在的には様々な環境問題と関係しうる。TPPと関係の深い環境問題の一つとして挙げられるのが、生物多様性問題であろう。生物多様性とは、遺伝子、種、生態系の3レベルの多様性のことを言うが、それらを保全し持続的に利用することが課題とされている。国際社会では、92年に生物多様性条約(CBD)が採択され、現在193の国・地域が批准している。

(イメージ写真=都市近郊の水田風景)

◆TPP主要国はカルタヘナ議定書に未批准

 まず、TPPと生物多様性条約との関係で問題となるのは、遺伝子組み換え生物(LMO)の取扱いである。
 LMO貿易の拡大は、LMOと在来品種との交雑、LMOの野外への拡散、「スーパー害虫」の登場など、様々な環境問題につながりうる。また、LMOがどのような問題が起こし、どれだけ深刻になるのかを全て予測することは不可能なため、予防原則に基づいた規定も必要になる。そのため、CBDでは法的拘束力のあるカルタヘナ議定書を策定し、LMOの国際間移動に関するルールを定めている。これには日本をはじめ、160の国・地域が同議定書を締結しており、昨年の補足議定書では、LMOの輸出国が輸入国に損害を与えた場合の「責任と救済」についてのルールも加えられている。
 しかし、特定国家間の協定であるTPPでは、カルタヘナ議定書のルールは通用しない。なぜなら、世界の遺伝子組換え作物(GM作物)の作付面積の約5割(約6680万ha)を占める米国はCBD自体に批准していないし、近年GM作物の作付面積が急拡大しているオーストラリアや、バイオテクノロジー技術の開発を推進するシンガポールなどはカルタヘナ議定書に批准していないからである。つまり、TPPによってGM作物の輸入が拡大し、万が一深刻な環境問題が起こったとしても、これらの国に対しては、同議定書に則って責任を問うことができない。
 それでは国内法で規制・対処できるかというと、この適用も難しいと思われる。実際、環境規制を目的とした国内法が自由貿易枠組みに違反するとして国際紛争解決措置がとられたケースは多く、TPPでも同様の手続きで違法扱いされる可能性がある。
 カルタヘナ議定書は、遺伝資源などの生物多様性を保全するために必要だからこそ策定され、日本もLMOの輸入により様々な問題が起こりうるからこそ、この議定書に批准したのである。こうした議論を振り返り、TPPで起こりうる問題を再度検討することが必要であろう。

◆生態系サービスとその衰退

 次に、TPPは、日本の生物多様性戦略とも矛盾している。日本では、里地・里山のように人間の働きかけとの相互作用によって成立してきた自然(二次的自然)に高い生物多様性が認められている。しかし、過疎・高齢化の進展などによって、耕作放棄地や、管理が不十分な水路やため池などが増加している。これは、農山漁村の生物多様性の衰退だけではなく、獣害や病虫害の発生のように、農山漁村の生活環境の悪化にもつながっている。
 そもそも、なぜ生物多様性が注目されているかというと、生物多様性は、衣食住に必要な財の供給や、気候を安定化させ災害を防止する機能、文化的な豊かさなど、様々な生態系サービスをもたらすためだ。そして、それを量的・金銭的なものを含めて評価しようという動きも進んでいる。例えば、コスタンザらの研究グループは、地球上の生態系サービスを年間平均約33兆ドル(世界の総生産の約1.8倍)と試算している。日本における農村の多面的機能も生態系サービスに近い議論だが、日本学術会議はこれを8兆円以上と試算している。また、それを支える協同組織・地縁組織の集落機能にも大きな価値が認められ、注目を集めている。
 こうしたなか、日本の環境省は、昨年10月に名古屋で開かれたCBD第10回締約国会議(COP10)でSATOYAMAイニシアティブを提唱し、人間の活動の影響を受けて形成・維持される二次的自然を保全することの重要性を訴えた。これは、農山漁村の生態系サービスやそれを支える地域社会の重要性を主張したもので、地域政策の柱となりうるものとしても世界的に注目されている。
 しかし、TPPの議論では、以上のような議論が考慮されることはほとんどない。TPPが農山漁村の社会構造の変化を促進することは、多くのTPP推進論者が認めるところであるが、その議論は産業としての農業のあり方までにとどまる場合が多い。
 農水省がTPPの影響試算で農村の多面的機能3.7兆円分が失われるとしていることは一つの目安として考慮されるべきものである。ただし、生態系サービスは金額換算が難しいものも多く、すべての環境問題がTPPを原因して発生するわけでは当然ない。
 こうしたなか、日本には、以上のような地域環境問題を考えるための重要な先例がある。それは、森林荒廃とそれに伴う各県の森林環境税の導入である。

生物多様性がもたらす生態系サービス

◆森林荒廃と森林環境税に学ぶべきこと

 日本の森林荒廃の原因は、森林の経済的価値が失われたことによるところが大きい。森林の経済的価値が失われた背景には、里山の薪炭林のようにエネルギー利用の変化によるものもあるが、人工林の場合、1960年に木材の輸入自由化がおこなわれ、木材価格が下落してきたことも理由の一つに挙げられるだろう。
 森林環境を良好に保つには、枝打ち、間伐・除伐、下草刈りなどの手入れが必要である。しかし、こうした作業には金銭・時間の負担が必要なため、採算が合わなければ当然手入れは不十分になる。ならば採算の合わない森林は放っておけばいいかというと、そうではない。実際、管理されない森林では、保水・土壌維持機能などの生態系サービスが失われ、獣害や病虫害の温床となるなど、重大な環境問題が全国各地で生じている。
 森林荒廃が深刻化するなか、現在29県で導入されているのが森林環境税である。これは、森林整備のために、県民(一番高い県で1人当たり年間1000円、低い県で同400円)や事業所(一番高い県で法人均等割額の11%、低い県で同5%)が税負担を行うものだ。しかし、森林経営が成り立つのならば、本来こうした税は必要のないはずである。木材の経済的価値が失われたことによって余計なコストが必要になり、地方自治体等に担う必要のない仕事を強いる事態になっているのである。
 このように、自然資源の輸入拡大は、単にそれが外国からの輸入品に置き換わるということだけではなく、自然資源が利用・管理されなくなることで、地域環境の荒廃を助長することにつながる。それによって生態系サービスが失われるだけではなく、コストをかけて管理する必要さえも生まれるのである。TPPは、国土保全政策上も重要な問題であることがわかるだろう。

◆農山漁村への不利益の偏り

 もう一つの重要な点は、環境悪化によってデメリットを被り、コスト負担が強いられるのは、他ならぬ地域住民だということである。
 環境問題の分析手法の一つに、「受益圏/受苦圏モデル」というものがある。一般的に、地方において大規模な事業や開発、政策が行われる際、その受益圏は幅広く設定され、経済的利益の最大化といった全体の整合性のもとで評価される。しかし、それに伴う公害・環境破壊によって生活被害を受ける受苦圏は、そこに寄り添う地域住民に偏っている。全体性を見る受益圏と身近な問題とみる受苦圏の視点はすれ違っているが、一般に受益圏は多数派で主導的立場を取りやすいため、受苦圏の視点は考慮されにくい。
 TPPにも同様な構図が見て取れる。TPPの議論の多くは、GDPのように国全体の利益を尺度として議論されることが多い。しかし、こうした議論は、地域環境が荒廃することによる痛みをほとんど受けることのない人々の間で行われている。そして、農山漁村に住む地域住民がTPPのツケを一方的に引き受けるという構造が生まれかねない。このように、受益圏と受苦圏との間の不利益に公正さを欠くことは、環境倫理学でも大きな問題の一つとされている。

◆将来を見据えた熟議が必要

 以上のように、生物多様性という側面をとってみても、TPPには様々な問題の火種が潜んでいることがわかる。貿易と環境の問題は複雑であるし、環境保全を理由にすべての貿易を規制するのは現実的ではない。しかし、安易にTPPを推進する前に議論すべき問題も多いと思われる。
 TPPによってLMOのような環境リスクへの対処がさらに難しくなる可能性についての検討は、不十分である。また、日本は、農山漁村の集落機能や生態系サービスの重要性にようやく気付き、それをSATOYAMAイニシアティブとして国際社会に主張したはずである。その提唱国自らが、生態系サービスなどを考慮せずにTPPを推進すれば、国として矛盾していることになる。
 今日、環境問題は「持続可能性」という言葉とセットで語られることが多い。環境問題を考慮することは、国あるいは地域の将来を考えることにつながる。TPPの是非についても、将来の日本、そして農山漁村の姿をしっかりと見据えた上で熟議する必要があると思われる。

SATOYAMA(里山)イニシアティブ

 昨年10月に開催されたCOP10(生物多様性条約第10回締結国会議)では、日本政府が提案した「SATOYAMAイニシアティブ」が採択されている。
 ここでは▽人々が伝統的な方法に学びながら、現代に合うかたちで土地と自然資源の適切な利用や管理の方法の実践で自然を守る、▽人間も豊かで幸せな生活が送れるようにすることをめざす、などが目標だ。
 具体的には、▽都市化したライフスタイルを見直し持続可能な土地や生態系サービスの利用方法をつくり上げること、▽里山を維持管理しながら経済を活性化させ都市への人口流出を抑制、食料や燃料を自給できる「より自立した地域社会の形成」に取り組む、などだ。国際的な連携の枠組みとして「SATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ」が発足、12か国の政府を含め74団体が参加している。

(2011.05.30)