シリーズ

JAは地域の生命線

一覧に戻る

第7回 地域を老若男女の拠り所に 中村都子(JAコスモス福祉生活部)

・自家消費野菜は最も安全性に説得力のある商品
・作り手は良心を伝えるため、勉強を
・生活指導をJAになくてはならない事業に

JAは地域の拠り所に

 高知の女性は昔から「ハチキン」と呼ばれてきた。ハチキンとは「八金と書く、高知県では女性が向こう見ずで勝気であること、またそのような人」(広辞苑)とされているが、しかし、中村都子さんは小柄でいつも笑顔をたやさず、どこからそのエネルギーが出てくるのか外見からは判らないが、「JAは地域の拠(よ)り所」をモットーに、全国の先陣を切る目を見張るような活動を指導し、組織されてきた・・・。(今村奈良臣)

大切なことは、地域を老若男女の
拠(よ)り所にすること

 高知の女性は昔から「ハチキン」と呼ばれてきた。ハチキンとは「八金と書く、高知県では女性が向こう見ずで勝気であること、またそのような人」(広辞苑)とされているが、しかし、中村都子さんは小柄でいつも笑顔をたやさず、どこからそのエネルギーが出てくるのか外見からは判らないが、「JAは地域の拠(よ)り所」をモットーに、全国の先陣を切る目を見張るような活動を指導し、組織されてきた。
 実に今から24年前の昭和61年8月25日に、農産物直売店「はちきんの店」を興した。いまでこそ全国各地に見られるようになった農産物直売所の草分けである。自家用に食べ切れない程ある野菜や果物を安全・安心をモットーに消費者に食べて頂き、女性たちのふところも暖めようという実践である。JAは出資してくれないので女性部メンバー83人が1000円ずつ出資し、8万3000円で最初の店を興し、今では県内5店舗、大阪・東京にも出荷できるようになった。
 この実践を踏まえて、次にJA女性部で「ちいぱっぱスクール」を開校し、学習の楽しみを踏まえて、明日への活力づくりの場を作った。さらにこれを足場に女性部では「ここ掘れワンワン塾」という農民塾を作り地域活性化の研究活動を推進した。
 こうした活動を基盤に、時代は福祉事業へと展開する中で、ヘルパーの養成(1・2・3級計721名)、平成10年には助け合い組織「にこにこ会」を発足させ、行政からの福祉事業の受け皿を作ることになる。
 さらに「あぐり三スクール」も開校する。[1]あぐりキッズスクール[2]あぐりミドルスクール[3]あぐりライフスクールである。要するに「地産・地消・地育」を階層的に地域に育てる活動である。こうした活動推進の歴史の中で取り残されてきた男性を「赤い褌隊」に組織し、男性の個性を伸ばしつつ、地域に不可欠な男性の多彩な組織活動を推進したのである。まさに「JAは地域の拠り所」にした歴史を中村都子さんは創ってきた。
(今村奈良臣)

あぐりキッズスクールで参加者らとともに(右端が中村さん)

(写真)
あぐりキッズスクールで参加者らとともに(右端が中村さん)

◆自家消費野菜は最も安全性に説得力のある商品

 今村 中村さんは小さい体で、はちきれんほどの知恵とエネルギーを持ってますね。随分色んな活動をやられていますが、「はちきんの店」を興されたきっかけはなんだったのでしょう。
 中村 昭和50年代の『家の光』で50万円自給運動がありました。その延長線上の活動として家庭菜園コンクールを実施し、どの家にもキレイな菜園があったけど、女性部の人たちは「結局食べ切れなくて捨てちゃう」と言うんで、これは商売になるなとピンと感じました。一方で当時、農家のお母さんたちは自由にお金を使えない時代で、なんとか彼女らのへそくりを作ってあげたかった。ただし、余りモノの野菜をお金に替えたいというより、自家消費用に農薬や化学肥料をあまり使わない安全性に説得力のある農作物を商品化したいというのが目的です。
 今村 自分や子ども、孫も食べてますよ、というのは最大の説得になりますね。
 中村 最初、組合長には「まかりならん」と反対されましたが、女性部の人たちに毎日組合長室に直談判しに行ってもらって、なんとか了承してもらいました。この店は絶対、農作物をお金じゃなくて安全性の観点で考えられる女性がやらなくちゃいけないと思い、土佐の女性パワーを結集しようとの想いで「はちきんの店」と命名しました。


◆作り手は良心を伝えるため、勉強を

中村都子さん 中村 それまでの農業経営はお父ちゃん主導型だったので、お母ちゃんたちはチッ素リン酸カリすら知らなかった。だけど自分の農場で作りたいものを作るため、作り手の良心に恥じないものを出すためには一生懸命勉強しなくちゃいけないから、「はちきんの店」開店の翌年に「ここ掘れワンワン塾」を始めました。
 その後は順調に支店を増やし結構みんな儲かりまして、ある日「そのお金でラスベガスに来てます」って絵ハガキが届いたんですよ。それを見て、女性の経済的自立のためには、しっかり遊びつつ勉強するようなお金の使い方も学ばなくちゃいけないなと思い「ちいぱっぱスクール」を開きました。今で言う女性大学みたいなもので、昔の不良高校生のドラマで「ビーバップハイスクール」ってのがありましたが、あんなぶっとんだお母さんたちを創りたいと思ったんです。
 今村 やることもさることながら、ネーミングがいいですよね(笑)
 中村 覚えやすい名前じゃないとダメですからね。平成10年には助け合い組織「にこにこ会」を作りました。ホームヘルプ班、料理班、デイサービス班、演芸班とか役割分担してみんなで好きなことを楽しんでやってもらいました。
 今村 そういう活動をすると、ぼけたりしませんね。
 中村 そうなんです。だからこれは「人のためじゃない。あなたの介護予防ですよ」というのを強調しました。


◆生活指導をJAになくてはならない事業に

sericat1351010011303.jpg 中村 「はちきんの店」を始めて30年ほど経った頃、次世代の人を育てないといけないと思って「あぐり3スクール」を立ち上げました。これを始めたのは確固たる生活指導事業を作りたかったからです。生活指導で女性部や福祉だけやっていては、今後JA合併が進んだ時、必ず縮減されます。だからこの3スクールをやることで、生活指導を農協にとってなくてはならない事業にしたかったんです。
 今村 男性の組織化もその視点で始めたのですか。
 中村 個人的に介護ケアマネージャーの資格を取って、現場に出るようになると、高齢の女性と男性では生きる気力が全然違うことに気付きました。
 女性はいくつになってもよく集まるし元気があるけど、男性はまったく違う。たまに集まったと思ったら、お酒を飲んで、「市場の相場が安すぎる」「今年は不作だった」「農協の販売はダメ」とか、おもしろくない話ばかりしている。奥さんを早くに亡くすと、一人で日常生活もままならない。まるで命を生き永らえるためだけに毎日を生きているような、そんな男性に、社会の中で自身の介護予防もしながら元気に活動してもらいたい、と思いました。ただ、いきなり120人ぐらい女性がいる「にこにこ会」には入れないだろうと思い、男性だけの助け合い組織「赤い褌隊」を作りました。
 そうすると、意外と男性は賢いし、精神的に自立できるんだと感心しましたね。女性部活動は事務局主導ですが、男性は全部自分達で企画を考えますから。
 やはり、JAの仕事はキッカケづくり。それが生活指導のなすべき役割だと感じました。
 今村 まさにそれがJAの役割ですね。『家の光』とかは日本中でみんな見てるけど、それをヒントにして、しっかり実行しなくちゃいけませんよね。
 中村 赤い褌隊が出来たことで、女性部も活性化しましたよ。男性がいるから女性は紅を注したり、男性もシャワーを浴びてピシッとした格好をするようになりましたから。やはりいくつになっても、地域でのびのび活動して、生き生きしなくちゃいけませんよ。農協はそういう意味でも、もっとたくさんやれることがあると思います。
 昔、私が入組した時は「ちょっと暑いから涼みにきたよ」「こんな話を聞いたよ」って、全然用事がなくてもみんなが農協に集まってきていた。農協側から出向くのも大切だけど、本来の農協活動というのは農協に人が来てもらわなくちゃできないと思います。だから、「農協はこんなに楽しいですよ」と伝えて、足を運んでもらうようにするのが生活指導の役割だと思います。全国のJAの生活指導員にも、ガンバレ!!、とエールを贈りたいですね。

(写真)
今村氏(右)とのインタビューは8月、農協協会にて行われた。

(2010.10.01)