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JAリーダーの肖像 ―協同の力を信じて

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米販売に燃える『商売の好きな農協人』

JA栗東市(滋賀県)代表理事組合長 北中勇輔氏

◆完全契約栽培で米作農家経営の安定へ 北中 勇輔氏(写真提供:(社)家の光協会)...

◆完全契約栽培で米作農家経営の安定へ

JA栗東市(滋賀県)代表理事組合長 北中 勇輔氏
北中 勇輔氏
(写真提供:(社)家の光協会)

 栗東市と聞いて、中央競馬の栗東トレーニングセンターを連想したせいか、北中勇輔組合長の第一印象は「馬力のある男」。堂々たる体躯で、明るくエネルギッシュに話す人である。「うちのJAは米屋になります。組合員の皆さんも、諸手を挙げて賛成ですわ」。
 いま、全国各地のJAが、それぞれのブランドを掲げて、激しい米の販売合戦を繰り広げている。
 十七世紀末には『近江米』のブランドが確立したという滋賀県である。JA滋賀中央会副会長の肩書きを持つ北中組合長には、老舗産地のリーダーとしてのプライドがある。
 琵琶湖に近い交通の要衝で、京都・大阪のベッドタウンでもある栗東市の人口は6万強。米の生産量は約5万俵で、JAの取扱量は約2万5000俵だが、それを全部JAで売り切るつもりだ。米の地産地消である。
 組合員数約3500の都市近郊型JAだが、営農指導員を6人置き、米の生産・販売にかけている。
 10年前から続けているのが「玄米蔵出しオーナー制度」。客と1年分の米を契約して売る方式だ。職員には、オーナー開拓の目標数値が与えられ、100%の契約達成が義務づけられている。さらに、これからは、全職員が総出で消費者家庭を訪問し、5キロ入りの米を売り歩きたいとのこと。
 最終的には、完全契約栽培によって、米作農家の経営を安定させる。それが「JAの米屋」ならではの目標である。
 米販売に燃える組合長。それもそのはず、生家は代々京都へ米を卸していた麹・米屋で、そこの長男。戦前は大地主だったが、農地解放で残ったのは、1.5ヘクタールの農地。農業への本格的参入は戦後のことだ。
 「自分は農業が好きですねん」と言う北中氏は、桃と柿の観光農園も経営している。桃の栽培は、相手が自然で思うようにいかないが、どれだけ手入れするかで、芸術品に近いものを収穫でき、それが最高の喜びにつながる。
 だから、春先からは、時間があれば農園に行き、観察と手入れをするが、桃の気持ちになって栽培管理をすることが必要だという。

◆ゼロの貯金残高を2億3000万円に

 北中氏は昭和12年の生まれ。草津高校の農業科を卒業後、栗東町農業共済組合に入ったが、一年後に大宝農協へ転職。そろばんが得意で、高校時代には、自分でそろばん塾を開いていたほどの腕前。そこを見込まれ、金融係として、農協にスカウトされたのである。貸付けの担当は長く、裁判所へ行って、自分で競売の手続きをやり、宅建の免許を取得して、億単位の不動産取引に携わった。
 一方で、労組の委員長も経験。仲間の待遇改善のために一肌脱いで、上司と激しくやりあっていたら、栗東トレセン支所が開設されたのを機に、支所長に昇進の辞令が出た。
 「やんちゃをして、上に文句ばかり言ってたから、うるさい奴だと思われて、支所に出されたんですわ」と、ご本人はおっしゃる。
 支所では、持ち前の社交性を発揮して、すぐに騎手の福永洋一や調教師たちと交友関係を結び、ゼロの貯金残高を2億3000万円にまで伸ばした。
 しかし、その頃、大病を患い、1年間の闘病生活を余儀なくされた。「医者から、もう、あかんといわれた」。31歳の時である。
 そんな北中氏を農協人として育てたのが、元全中副会長の千代正直組合長だ。
 都市型JAとして金融事業に傾斜していくなか、伝統ある米産地を守るため、「カントリーと育苗センターを建設すべきだ」というのが北中氏の持論だった。当時は非常勤理事だった千代氏は、反対者が多い理事会のなかで「信用金庫じゃないんだから、農協らしさを出そう」と、北中氏をバックアップ。
 千代氏が組合長に就任してまもなくの昭和57年に、二つの施設が完成。建設に向け、昼夜を問わず奔走したのが北中氏だった。

◆組織活動で最も重視するのが人づくり

 平成3年に参事、8年に代表理事専務の職に就き、12年に組合長に就任するまで、県連や全国連の役員として多忙な千代組合長の「国家老」として仕えた。
 「あの方は、実に度胸のある人だった。農協の仕事は、100%私に任せてくれた」。
 今や現場の仕事に精通したリーダーである北中組合長が、組織活動でもっとも重視しているのが人づくり。徹底して信賞必罰を行い、思い切った抜擢人事もやるが、現場で苦労する職員を大事にする。
 Aコープやスタンドで、今日はがんばって売上げが上がったとの報告があれば、その場で、職員に大入り袋を配る。「暑さ寒さ厳しい時に、外に立つのは大変なことですわ」。
 ところで、北中氏のもう一面は、書画愛好家の顔である。美しい風景を描いた日本画を特に好み、コレクションに余念がない。旧家らしく、北中家には、江戸時代中期の「東下り絵屏風」など数々の名品が伝わっている。「いったん美術館に入ると、外へ出られなくて困る」と、北中氏は苦笑する。
 「答の出ない美術は最高の学問ともいえる。いい書画は奥が深くて、なかなかその心が読めない」。
 自称「商売の好きな農協人」の北中組合長だが、この人の奥もまた、深い。

【著者】(文) 山崎 誠

(2007.07.19)