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JAリーダーの肖像 ―協同の力を信じて

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事業の基本は営農の永続 (上)

JA鳥取中央(鳥取県)代表理事組合長 坂根國之氏

◆出発点は青年部活動 坂根國之氏写真提供:(社)家の光協会  昨年2月、JA鳥取...

◆出発点は青年部活動

坂根國之氏
坂根國之氏
写真提供:(社)家の光協会

 昨年2月、JA鳥取中央は、JAとうはくと合併。これによって、鳥取県中部地区のJAは1つになり、県下3JA構想が実現した。
 管内は、中国地方の名峰・大山の山麓に広がる県内随一の農業地帯である。全国一の生産量を誇る『二十世紀』ナシやラッキョウをはじめとして、スイカ、メロン、ナガイモ、肥育牛など多くの特産物があり、約180億円の販売高を上げている。
 組合長の坂根國之(さかね・くにゆき)氏は、昭和15年に、倉吉市で米と養蚕を営む農家の長男として生まれた。当時の農家は忙しく、春先から田植えが終わるまでは、一日として休みはなかった。
 「幼い頃から農作業の手伝いが日課になっていたが、疲れきった両親の姿を見るたびに、いつかこの重労働から解放してやりたいと、子供心に思っていた」
 中学を出ると、迷うことなく倉吉農業高校へ進学。当時、高校の柔道部でともに活躍したのが、元横綱琴桜の佐渡ヶ嶽親方だった。その縁で、親方亡き後も、琴欧洲関など部屋の力士衆をイチゴ狩りに招いたりして、JAと部屋との交流を続けている。
 坂根氏は、高校卒業と同時に就農すると、米中心から『二十世紀』ナシやプリンスメロンなどの作目を取り入れた多角経営に転換し、合理的な経営改善をすすめた。
 後継者仲間の2人とともに、1台のバインダーを購入したのが、機械化農業の始まりだった。共同で稲刈りをした後、3組の夫婦そろって大山へドライブするなど、親の世代とは一味違う快適で楽しい農業をめざした。
 昭和50年代には、倉吉市農協青年部の委員長を務めた。その頃は、盟友の高齢化が進行するなかで、組織の若返りが青年部活動の大きなテーマだった。
 ある日、坂根氏は、農協から相談を受けた。倉吉市が工業団地を造成するために水田を買収したが、整地工事を始めるのは1年先なので、それまで、その水田で、青年部が請負耕作をしてみないかという提案である。
 「共通の目的をもって、仲間が力を合わせて作業するのは、協同の精神を培う絶好の機会になると考え、引き受けた」

◆仲間と知恵と喜びを

 さっそく、坂根氏は、持ち前のリーダーシップを発揮した。部員を10のグループに分け、それぞれが独自の作業計画を立て、共同耕作に取り組んだ。稚苗移植や乾田直播など、グループごとのやり方で競い合うのである。
 盟友たちは、自分の家の農作業を終えてから駆けつけ、作業は深夜に及ぶことが多かった。だが、仲間とともに知恵と労力を出し合って、苦労しながら、収穫を迎える喜びを体験した。
 さらに、その翌年には、農協の勧めで、年末から春まで、ビール麦の期間借地耕作にも挑戦した。この時は、省力ばらまき栽培によって、かなりの成績を上げた。
 こうした活動は、マスコミで報道され、青年部に対する地域の評価と信頼は一挙に高まった。新たに加入する農業青年も増えた。
 「実績を示せば、人は集まってくるし、組織は活性化する」
 と、この時、坂根氏は確信したのだった。
 その後、農協青年組織の鳥取県、中・四国ブロックの委員長や全青協委員として活躍し、38歳で農協常務となった。

◆組合員の声受け生産法人を立ち上げ

 齢の若い役員だった坂根氏を鍛えたのが、八田隆利組合長。八田氏は、全購連から鳥取県農協中央会参事を経て、20年間倉吉市農協組合長を務め、県農協中央会会長にも就いた農協人である。
 「協同組合運動の理念から逸脱した意見を述べると、厳しく叱責された。協同組合運動にとって何が大事なのか、日常業務をとおして、教えられることが多かった」
 営農担当の常務だった坂根氏は、集落座談会に出るたびに、組合員から要望された。
「後継者もいないし、なんとか農協で農作業を請け負ってほしい」
 予想以上に深刻な状況を知った坂根氏は、「よし、法人をつくろう」と、その場で組合員に約束。すぐに農業生産法人の設立を理事会に提案し、一応の合意を得たが、実現に至らず数年が過ぎてしまった。
 そこで、平成5年、組合員との約束を果たすため、坂根氏は自らが資金の大半を出資し、3人の同志と農業生産法人を立ち上げた。
 初年度は、冷夏と長雨。12ヘクタールの水田だったが、単収は、わずか1・3俵。960万の赤字が出た。
 しかし、翌年からは黒字に転換。現在は、JAがこの会社の出資金を買い取り、30ヘクタールの農地を請け負うJAのグループ会社として事業を展開している。
 そして、坂根氏がJA鳥取中央の組合長に就任したのは平成14年。地域農業のリーダーの、満を持しての登場であった。

(次回に続く)

【著者】(文) 山崎 誠

(2008.07.11)