シリーズ

私と農業

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故郷は様変わり。されど、農は心の礎

その1

 この6月で約41年間勤めた明治製菓を退社、予てよりの計画であった故郷鳥取市で生活を始めました。
 41年振りの鳥取はまさに浦島太郎でした。上京当時の様子は一変、現状を把握するのに一ヵ月余りを要しました。まず、新しい幅広の道路が沢山出来ており方向感が掴めない、繁華街も従来の若桜街道や智頭街道からショッピングモールやホームセンターなどを中心とする郊外型の繁華街が新しく誕生していることなど様変わりでした。ようやく慣れたこの頃です。

 この6月で約41年間勤めた明治製菓を退社、予てよりの計画であった故郷鳥取市で生活を始めました。
 41年振りの鳥取はまさに浦島太郎でした。上京当時の様子は一変、現状を把握するのに一ヵ月余りを要しました。まず、新しい幅広の道路が沢山出来ており方向感が掴めない、繁華街も従来の若桜街道や智頭街道からショッピングモールやホームセンターなどを中心とする郊外型の繁華街が新しく誕生していることなど様変わりでした。ようやく慣れたこの頃です。
 私の出身は鳥取市(旧岩美郡)国府町玉鉾、生家は一町三反程度の稲作中心の農家でしたので子供の頃から農業と共に、の生活環境で育ちました。農繁期には学校から帰るとよく手伝いましたが、あまり苦にならなかったと記憶しております。当時は二毛作が行われておりましたが、麦芽踏みや麦束は畦の上で天日乾燥していましたので数日毎にひっくり返す作業、また、稲作では水苗代でしたので、田植え準備での苗取りや苗配り、田植え作業など重労働でしたが、今は懐かしい想い出です。体力や気力も自然と養われたのでしょう。 このような環境でしたので、生家から六キロほどの吉方にありました鳥大農学部(在学2年に鳥取市湖山に移転)に進学しました。
 農学部学生時代の4年間は鳥取農試病虫科でアルバイト、先生方の稲病害虫調査の手伝いも経験しました。このご縁で明治製菓に入社しましたが、農家育ちであったことや、農試での経験が大きく役立つことになった訳です。以来ほぼ農薬事業一筋。
 減反と共に始まった良質米栽培では、いもち病防除が最大の課題でした。新しい作用性、抵抗性誘導型いもち病防除剤として昭和50年発売したオリゼメート剤の普及拡大に全力投入した会社人生でした。発売36年を迎えていますが水田面積の約30パーセントで使用され、良質米の安定生産に貢献しています。
 全国を回り多くの農業関係者、指導者、流通関係者、業界関係者の多くの方々から戴いた財産は大きな誇りです。

その2に続く)

【略歴】
(まつなが・まさゆき)
鳥取県生まれ、鳥取大学農学部卒。昭和43年明治製菓(株)入社、平成8年農薬資材部長、11年生物産業事業部長、13年執行役員生物産業事業部長、15年常務執行役員生物産業事業本部長。21年6月退任。

【著者】松長政幸
           明治製菓株式会社顧問

(2009.09.08)