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私と農業

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議論好き農協マンの血筋をひいて

その2

 私の農業との二つ目の接点は「農協」だった。
 実家の隣に当時としては珍しい鉄筋づくりの小林農協があった。

 私の農業との二つ目の接点は「農協」だった。
 実家の隣に当時としては珍しい鉄筋づくりの小林農協があった。農業倉庫付近は少年時代の遊び場。野球をしたり相撲を取ったり少々悪事も。ときどき農協職員と当時は珍しい三輪自動車で肥料配達の手伝いもした。農協関係の宴会はわが家でよく行われた。当時は酒好き、議論好きが農協マン。どうやらこの宴席の空気を吸った私もその血統をひいてしまったようだ。
 中学時代は田舎の医者「赤ひげ先生」になろうと思ったが、高校生になるとどうも理科特に「化学」が苦手となり、医者は無理だと思うようになった。今でも化学構造式(いわゆる亀の子)をみるとゾッとする。
 大学はともかく東京へと思い、商学部へ入学。大学紛争の激しい時代だった。当時の「農業経済学」はマルクス経済学が主流で理解が難しく非現実的であると思いつつ独学したが、結局ものにはならなかった。
 就職は農業団体で「農」の世界を全国レベルで見聞してみようと考え、まず全中にまずアタックしたが、商人はいらぬと門前払い。当時の全購連に標的を移し、すんなり入会が決まったものの、大学の教授の推薦状が要るとのこと。担当教授は近代経済学の大家でマルクスが大嫌いだったため、「貴様も変物だ。よりによって労働団体に入るのか!」と一喝された。
 配属先は肥料部輸入課。仕事は肥料原料の加里やリン鉱石の輸入だった。腰掛のつもりなので言いたい放題の大言壮語だが、上役や同僚も議論好きで、最善ならばと若造の提案でもどんどん受け入れてやらせてくれた。自由闊達な雰囲気が伝統的にあったらしい。当時の全購連は世界の肥料原料価格を決めるほど、世界一の買い手だった。ここで自分なりに活躍の場と農業・農家に貢献できる道を見出してしまい、爾来30余年の全農マン生活に踏み出したのである。ちなみに昭和47年3月に全販連と合併して全農が誕生したので、私は最後の全購連マンだった。

その3に続く)

【著者】小齊平一敏
           クミアイ化学工業(株)前専務取締役

(2009.11.27)