特集

農業協同組合新聞創刊80周年記念
食料安保への挑戦(1)

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【倍賞千恵子さん食を語る】
母の食文化受け継いで 庶民派女優の食遍歴ざっくばらん

倍賞千恵子さん(女優、歌手)×吉武輝子さん(評論家)

 疎開という言葉には一家離散とか飢餓などの悲劇的様相がつきまとうが、倍賞さんの幼少時代は違った。自然の恵みを享受した田舎暮らしを田園賛歌を歌うように語った。そして現在、再び世界的な食料危機の足音が高い。食品の安全も危ない。汚染米事件に「許せない」と怒り、資材高騰に悩む農家の営みを憂えた。食をめぐる倍賞さんのトークは吉武さんの進行で多彩に広がった。

原体験にはイモ掘りも自然体で克服した弱点

◆田園賛歌の幼少時代

賠償千恵子さん
ばいしょう・ちえこ
1941年6月東京都生まれ。松竹音楽舞踊学校を首席で卒業。松竹歌劇団に入団。61年松竹映画に入り、女優としてデビュー。主な出演作には「下町の太陽」「家族」「故郷」「幸福の黄色いハンカチ」「駅」「霧の旗」そして「男はつらいよ」全48作など。コンサートでも活躍。著書には「倍賞千恵子 お料理の知恵袋」などがある。

 吉武 世界の食料危機が問題になっていますが、日本人は戦中戦後に食べるものがなくて、餓えに苦しんだ経験を持っています。倍賞さんの子ども時代はいかがでしたか。
 倍賞 私は東京の巣鴨生まれですが、戦争末期に母の実家がある茨城県の岩瀬に、父を除いて一家で疎開しましてね。実家は農家でしたから、両親が畑を借りてイモを作ったりで、幸いひもじい思いはしませんでした。
 まだ4、5歳のころのことですから畑仕事はできませんが、イモ掘りとかダイコンの引っこ抜きはしました。農作業をする大人の周りをちょろちょろしていたわけです。食事はイモご飯をよく食べました。
 吉武 生産現場でイモ掘りやダイコン抜きをした原体験を持っているなんて、すばらしいわねぇ。今の都会の子どもたちはスーパーに産直の泥つきダイコンが並んでいたりすると「あれ!これ泥だらけだ!」なんて目を丸くするのよ。野菜は畑から引っこ抜いてくるものだという実感がないのね。
 だから小中学生に農業体験をさせる農協や生協などの行事がもっと広がればよいのにと思っています。
 倍賞 小学4年生のころに東京へ戻りましたが、疎開中の田舎暮らしを振り返ると自然の恵みをいっぱい受けて育ったという思いが強いですね。キノコや山菜、野草もよく採りました。マツタケまで見つけたんですよ。クワの実も摘みました。
 また田んぼではタニシ、川ではシジミとか川エビなども捕りました。父は釣りが好きでしたから魚にも余り不自由をしなかった思い出もあります。近所のおじさんのお手伝いをしてタバコの葉っぱのしわを伸ばしたりもしました。
 吉武 倍賞さんは疎開先が良いところで、幸せだったんですね。私の場合の戦中戦後は、毎日がほんとにひもじい思いでした。おコメなんかほとんどなくて、サツマイモが食べられれば、まだいいほうで、それもなくて、お百姓が畑に捨てたイモの茎まで食べたりしました。
 倍賞さんは女優になる前は松竹歌劇団(SKD)の団員で舞台に出ていましたね。もうそのころは飢餓の時代を脱していましたか。激しいお稽古の中で食生活はどうでしたか。1950年末から60年のころのことですが。

◆食べて歌って踊って

 倍賞 入団前に松竹音楽舞踊学校で3年間の教育を受け、ここでの生活が今の私を作ったと思っています。お金持ちの人は外食、私は弁当持ちで学校に通っていました。宝塚のように寮制ではないので私は都内の自宅から、また地方出身の人は借りている部屋からです。
 みんな食べ盛りですからお弁当だけでは足りなくて出前を取ったり、買い食いもしました。学校は築地にある当時の東劇の4階でしたが、そこへ軽食を売りに来るおじさんがいて、私はコーヒー牛乳とあんパンを楽しみにしていました。その上、学校帰りにはまた、みんなで飲食店に立ち寄るのです。1日5食は食べていました。
 吉武 体力のいるお稽古とはいえ、すごい食欲。今の20歳前後の娘さんの減量に気を遣う食生活とは違いますね。当時は食べることによって体力をつけていったのね。
 倍賞 でも私ね。学校で貧血を起こしたんですよ。お医者さんに血が薄いと診断され、このまま学校を続けるのはムリだと言われました。だけどSKDをやめたくないので鉄分などの摂取を増やすことにし、母は毎日、私にホウレンソウの赤い茎を食べさせてくれたんです。そしてお弁当にも、たっぷり入れてくれました。
 また学校の診療所では毎日注射を打ってもらい、やがて丈夫になりました。ところが今度は鉄分の摂り過ぎで腎臓結石になったんです。
 吉武 過ぎたるは及ばざるが如しーーですね。
 倍賞 そうです。結石がわかったのはずっと後ですけど。
 吉武 じゃあ、その前に経歴の話を少しして下さい。
 倍賞 学校を卒業して浅草の国際劇場でSKDの公演に出ている時、松竹映画にスカウトされました。61年のことです。
 だけど第1作の映画に出演中はまたSKDに戻るつもりで、撮影が終わると国際劇場に駆けつけ、私の代役が舞台で演じているのを見ながら〈私の役を取られちゃうのかな〉などと心配していました。
 でも映画の主演作が次々に決まっていき、1日に3冊くらいの台本を抱えて、駆け回ることになり、猛烈に忙しくなりました。生活もころっと変ったんですね。
 腎臓結石で痛みが来たのは山田洋次監督の「霧の旗」(松本清張原作)の撮影中でした。滝沢修さんとの芝居の最中に痛み始め、胃けいれんかと思って救急病院にやっとかけつけたのが65年のことでした。

◆ビールを飲んで治療

吉武輝子さん
よしたけ・てるこ
1931年芦屋市生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。作家・評論家。小説、評論、伝記などの著書多数。近作は「病みながら老いる時代を生きる」(岩波ブックレット)、「老いては子に逆らう」(講談社+α文庫)。

 倍賞 2度目はその作品が完成し、キャンペーンのため九州へ向かう飛行機の中で痛み出し、七転八倒しました。
 吉武 それは大変だ。空の上ではどうしようもない……
 倍賞 結局、九州に向かう飛行機のトイレで体外に排出できました。それまでには3人のお医者さんにかかりましたが、うち2人は「手術して腎臓を取るしかない」といわれ、1人は「そんなことしなくても薬と水と縄跳びで直りますよ」というの。
 それで私は自然体みたいな療法を選び、縄跳びに加えて、自転車でがたがた道を走ったりもしました。また水のがぶ飲みがいやなら「ビールでもよい」とお医者がいうので、それからです。私がビール飲みになっちゃったのは(笑)。
 私は結石のできやすい体質らしいのですが、そうした自然体で今は直っています。
 吉武 飲食を含めた自然療法で命をたぐり寄せていくなんていいわねぇ。ビールも飲めるようになって(笑)。
 ところでセカンドハウスを北海道につくったのはどういう動機からですか。
 倍賞 私は若いころから、温泉があって、シラカバ林があって、小川が流れている―そんな所にいつか家を持ちたいと思っていたからです。
 吉武 やはり自然大好き人間だったのね。
 倍賞 それから小六さんと出会って(夫の作曲家・小六禮次郎氏のことを倍賞さんはそう呼ぶ)小六さんの趣味もあり、一致したのです。
 小六さんは空を飛ぶのが夢でウルトラライトプレーンという骨組みだけの小型飛行機の免許を取りました。北海道の飛行場で練習したのですよ。
 飛行場の使用は会員制です。格納庫もあります。
 そこで小六さんが飛ぶ時に便利なようにと飛行場の敷地内を借りて私たちのセカンドハウスを建てたというわけです。だから家の前は滑走路です。
 吉武 そこには年間どれくらいいるんですか。
 倍賞 夏3か月、冬もそれくらいかな。かなり長くいます。
 吉武 ご主人は空の上からも大自然を満喫しているわけね。
 倍賞 家の近くでは6月ごろ、タラの芽とかフキとか山菜がいっぱい。川ではクレソン、つまりセリがたくさん採れます。秋は秋でシメジ採りです。

◆ご飯とサンマ大好き

倍賞千恵子 お料理の知恵袋

 吉武 なんだか疎開時代の延長みたいな話ですね。
 倍賞 そういえばそうですね。牧場に自生しているヤマブドウをもらいに行って焼酎に漬けたり。それから酪農の方たちがハウス栽培をした野菜を届けてくれたりします。
 吉武 料理は若いころから作っていましたか。
 倍賞 いえ、若い時は母の手料理ばかりでした。今も思い出いっぱいです。ケンチン汁、ミツバのおひたし、セリご飯、それから力がつくようにとバター焼きのおもちに醤油をつけてノリで巻いたお弁当…。
 私の好物のサンマにはダイコンおろしが絶対に必要だとおろしてくれたのも母です。
 自分で料理を始めたのは親元を離れて1人暮らしを始めてからです。健康食品のコマーシャルに出ていたころ、五穀米をもらいましたが、あれはきちんとした炊き方をすると噛んでいてほんとに味がありますね。
 おみそ汁のダシは煮干し、昆布、おかか、シイタケの4種類のどれかを使いますが、基本は煮干しです。具は決まっていないけど量はいっぱい入れます。
 なんといっても大好きなのはご飯です。混ぜご飯には何でも入れちゃう。余ったらヒジキでも何でも。
 吉武 お母さんは健康のためにはどんな食べものがよいか、よく知っていらっしゃった、それを娘に伝えた、倍賞さんは母の食文化の継承者よ。生活を大切にしていらっしゃる。
 倍賞 生活がきちんとしていないと表でも、きちんとした仕事ができないと思います。ただ仕事が忙しいと料理の味が狂うことが最近多いですね。焼き過ぎたり煮過ぎたり塩が利き過ぎたりで気持ちが仕事のほうにいっちゃっているんですね。
 吉武 外で働くお母さんは大変です。食べることにもっと手間ひまをかけることができる時間の余裕がほしいですね。
 ところで最近の汚染米事件をどう思いますか。
 倍賞 食品の事件が多いですね。あんなことがあるとお百姓さんがかわいそうですよ。なぜあんな事件が起きるのかしら。
 吉武 農家には減反をさせておいて外国から輸入するというミニマムアクセス米の制度が問題です。この制度は米国の圧力でできました。根底には日米安全保障条約があります。条約には米国経済が立ち行くようにという内容も入っています。そんなことから汚染米まで輸入することになるのですよ。

◆資源の浪費を憂える

 倍賞 許せませんねぇ。「申し訳ございません」ってテレビカメラの前で頭を下げても、農水大臣がやめても政府の責任は帳消しにならないのですから。それに汚染がわかっても返送しないのが理解できません。
 吉武 農業の現場や農家の生活実感が全くわからない二世たちが大臣になっているのも問題です。とにかく地元の作物を地元で食べるのが一番なのよ。
 倍賞 北海道でもね、ロシアとかオーストラリアのサケが売られています。さすがに中国産の野菜は店頭からかなり消えていますけど。
 とにかく食料自給率が4割なんて信じられない。それでいて賞味期限切れの食料がどんと捨てられて、その一方で地球上には餓死する人がたくさんいるというのですから何がなんだかよくわかりませんね。
 吉武 世界貿易機関(WTO)もおかしいのです。
 倍賞 捨てられるゴミも気になります。買物をすると中身よりもトレイやラップなどの包装のほうが多い。何故?あんなに包むのでしょうか?昔はザルで量り売りでした。だから中身がはっきり確かめられましたよね。
 吉武 曲がったキュウリやナスを新聞紙に包んでね。不ぞろいでもいいのよ。おいしければ。何も規格をそろえる必要はありません。流通機構も正していかないといけませんね。
 それから酪農の話が出ましたが、原油高・飼料高で畜産農家は今、大変ですよ。
 倍賞 そうですよね。経費のこと以外でも問題が多くて。生乳が多いから減らせといわれたり、今度はバターが足りないからもっと搾れといわれたりね。それに牛乳は水よりも安いという状況が続いているとのことですよね。
 吉武 おコメにしても作らなければ補助金を出すというのではやっていけません。命の糧を作っている人たちが大切にされない国って最低だと思います。消費者もこうした問題の解決へもっと声を上げるべきです。
 倍賞 賛成です。

吉武さん×倍賞さん

 

対談を終えて
 倍賞千恵子さんとは「神楽坂女声合唱団」のお仲間である。毎年12月にはクリスマスディナーショーが開催されるが、この8年間毎回その中に倍賞千恵子さんの歌と朗読のショーが組み込まれ、花を添えている。今年は12月16日に水天宮のロイヤルホテルと決まっているが、なんと言ってもチケット代が2万5千円。食事が美味しいのと倍賞千恵子ショーに華があるので「3分の2はこの2つが。残りは我らのがんばり」と我ら団員はヘンナ胸の張り方をしているのだ。伴奏は必ず千恵子さんの夫の小六さん。何となく恥ずかしそうで、そそくさとで出て来て、そそくさと退場して行く。その初々しさについ顔がほころんでしまう。倍賞さんに初めてお会いしたとき、あまりの気取りのない、暖かさいっぱいの当たり前の感覚に驚き、この夫妻の含羞のあり方に、人の歳の重ね方の見本を目の当たりにしたような思いにさせられたものである。
 倍賞さんもかって乳がんを患ったが、わたくしが3年前に大腸がんの手術をすることになり「しばらく練習を休みます」とオープンに挨拶したら、帰り際に「わたくしも妹もがんばって生きています。吉武さんもがんばってね」と抱きしめて耳元で囁いたときの、倍賞さんの身体の温かかったこと。いまもその感覚がふと蘇り、生きる原動力になってくれている。
 対談をしている最中も、忙しさにかまけて忘れがちになってしまう、自然の優しさや命の有り様の暖かさに、足を止め、心と耳を傾けながら生きている様がしみじみと感じ取られ、改めて、この銀幕のスターの豊かな人間性に惚れ込んでいるわたくしがいた。ねぇ、朗読をするとき、めがねが鼻の上までずり落ちてもへっちゃら。それがかえって魅力になってしまうこの人の天性の暖かい人柄に触れた心地よい1時間だった。(吉武)

(2008.10.15)