特集

農業協同組合新聞創刊80周年記念
食料安保への挑戦(2)

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歴史から学ぶJA改革 特別対談 童門冬二氏、加藤一郎氏

童門冬二氏(作家)×加藤一郎氏(JA全農専務)

改革の話は八代将軍徳川吉宗による享保の改革と、第九代米沢藩主上杉治憲による藩政改革、そして幕末の長州における農政改革が軸となった。いずれも優れて現代的な課題を照らし出す内容が鮮明に語られた。地域経済の活性化では米沢の殖産振興、国政レベルでは吉宗の少子化対策、そして農政改革の核となった松下村塾の知られざる一面など話題はにぎやかに広がり、井原西鶴の倹約論とか藩校開設という教育投資にも及んだ。

名君たちは農政を基本に
生産拡大そして少子化対策 新田や特産品の開発に挑戦

◆鷹山の役割をJAグループで

どうもん・ふゆじ
どうもん・ふゆじ
1927年東京生まれ。東京都知事秘書、都企画調整局長、政策室長などを歴任して79年退職。作家活動に専念。60年に芥川賞候補。著作は「近江商人魂」「伊能忠敬」「小説 上杉鷹山」「直江兼続」など。JA全中のJA経営マスターコース塾長。

 加藤 日本は高度経済成長からバブルにかけての「躁」の時代を経て「鬱」の時代に入ったが、鬱蒼たる森とか鬱勃たる野心などと形容されるように鬱というのは本来、エネルギー、生命力にあふれている状態をさす言葉であるが、そのエネルギーと生命力が出口を失っている状態をいう――作家の五木寛之さんはそう書いています。外面社会の充実をはかるのが躁の時代とすれば、鬱の時代は心の中や足元を見詰めるべき時代であり、鬱の思想が必要だとも書いています。スローライフとかエコロジーなどは過去に息づいていた鬱の思想です。
 現代は、明治元年から換算すると、徳川時代に置き換えれば、八代将軍吉宗の時代にあたります。吉宗の時代は元禄という躁のインフレ時代を経た享保のデフレ時代で現在と似ています。その後、童門先生が小説でお書きになった米沢藩(山形県)の上杉鷹山が出て藩政改革に成功します。
 童門 鷹山(治憲)は第9代の米沢藩主です。一代の名君です。
 加藤 今、地方経済が疲弊する中で、その活性化が切実に求められますが、かつては殖産振興を武士階級が担い、米沢では漆、楮(こうぞ)、桑、紅花、鯉などの産業を興した。現代ではその役割を我々JAグループが担うべきではないかと思います。そうした観点から歴史の話を少しお聞かせ願えればと思います。
 童門 鷹山が出てくる背景には徳川吉宗の農業改革があります。彼は当時、ほとんど誰も触れることのなかった農業振興に目を向けた。彼は紀州藩主の時に農業振興を合わせた藩政改革を実験していた。目安箱などもその効果は実験済みだった。将軍になって地方の改革をそのまま国政レベルで展開したわけです。
 当時の日本の人口はざっと1300万人。江戸開府以来ずっと横ばいでした。将軍吉宗はこれを問題にし、なぜ増えないのか、と質した結果、日本人は1人が年に1石程度を食べるから米の生産目標は1300万石でコト足りるという幕閣の安易な食料政策の基本が浮かび上がりました。そこで吉宗は「どうして増反、増産しないのか」と問うて議論を進めました。
 「農業技術はもう限界。開発の余地はございません」という報告には「国内だけでモノを考えるから壁にぶつかる。外国の優れた事例、技術、科学書とか、日本にはない農産物や動物、花などを導入すべきではないか」と提起。「日本は鎖国しております」との反論には「長崎港が開いており、朝鮮、中国、オランダとは交流がある」といった調子で、結局はいろんな物が輸入されました。
 加藤 吉宗の発想には少子化対策などもあったんですね。
 童門 そうです。ということで大岡忠相を山田奉行から江戸南町奉行に抜擢し関東地方の新田開発も兼務させた。見沼新田など東京や埼玉の新田と名の付く所はたいてい大岡が開発した農地です。
 食料増産によって吉宗の時代には人口がほぼ倍増し約2500万人になりました。また国民の農業に対する目の向け方も近視眼的なものではなくなりました。一方、輸入品の中には科学品や珍しい動物や鳥なども含まれており、こうした面からも国民が文化性や教養性を高めていくという資質向上の道筋を開きました。

◆下敷きは西鶴の「長者丸」

かとう・いちろう
かとう・いちろう
1949年生まれ。昭和46年入会。59年米国全農燐鉱(株)副社長、平成10年本所肥料農薬部次長、平成11年本所総合企画部長、平成14年常務理事、平成17年専務理事就任。

 加藤 国民の資質を高めようとした享保の改革の意味は非常に大きいですね。
 童門 国政レベルでは次に寛政の改革があり、これを実行した白河藩主松平定信は吉宗の孫です。また享保の改革の時に今でいえば総理だった水野忠之の子孫が天保の改革の推進者水野忠邦です。いわば江戸時代の三大改革はすべて吉宗一統がやったといえます。
 加藤 各藩の実情はどうでしたか。
 童門 270の藩は全部10割自治でした。今のように国庫補助金や地方交付税などはありません。どの藩も領内の農産品振興に活路を求め、農政に対する知識と農民への技術指導に力を注ぎました。
 そんな中で享保の改革は各藩の模範となり、どことも吉宗公の改革に学べということで、鷹山もその1人でした。その時期は安永、明和の時代で、総理に当たるのは田沼意次です。元禄に次ぐ第二の高度成長期でした。しかし、これは国レベルでの景気の良さであり、地方にはそれぞれの消長があります。
 特に上杉家はひどい状況でした。15万石の収入の85%が人件費で、あとの15%は商人からの借金の利子にも満たない。上杉謙信の時代には約200万石でしたが、関ヶ原で負けたりして激減しました。ところが全くリストラをやらずに200万石時代の人員をそっくり抱えていました。
 これは謙信の養子である景勝の右腕・直江兼続の首切りはしないという方針によります。兼続は上杉家の生きる道は農業立国以外にはないとし「四季農戒書」という農民の指導書も書いて、それが上杉家に伝わっています。兼続は来年のNHK大河ドラマの主人公です。
 鷹山も先生である細井平州という学者に私の改革のお手本は直江兼続殿であるといい、農業振興を国是にしました。
 鷹山の改革は1つは井原西鶴の改革方法を下敷きにしていると思います。
 加藤 あの文人の西鶴ですか。
 童門 そうです。西鶴は元禄のバブルの時代に、うかうかしていると景気は失速するぞ、今のうちに長者丸という薬を飲めといっているんですよ。
 薬の成分としては第1が始末で、入るを計って出ずるを制するバランスシートをつくること2番目は算用で、始末を可能にする技術論を考えること▽3番目は才覚で、算用がうまくいかなければ、それまでとは違う方法を考えること4番目は信用で、商人は信用こそ第一――と4点を挙げました。
 鷹山はこれを採り入れ、また西鶴と同じく倹約はケチとは違うといいました。ケチは節約したカネを自分のためにしか使わないが、倹約は先行投資も惜しまないとします。JAでいえば組合員のために使うということですね。
 一方、倹約を求めるには増収策が不可欠として、まず土地に見合った物を生産する適地主義を唱えました。米沢は北限の制約から、領内で生産できない生活必需品がかなりあり、それらを移入するためには地元で作れる特産物の市場価値をよりいっそう高めないといけません。
 加藤 倹約といえば二宮尊徳を思い出しますが、彼は理財家でした。また庄屋さんといわれる方々は、現在でいう「担い手」であるとともに、農・商・工連携のキーマンでもありました。

◆目前の危機克服と子孫に何を残すか

葛飾北斎 下目黒(富嶽三十六景)
葛飾北斎 下目黒 (富嶽三十六景)

 童門 そうですね。
 米沢は麻、紅花、漆、楮、桑などを産出しますが、これらは製品としてではなく、加工の余地を残した原材料のまま移出されているのではないのか見直しをしてみよ――と鷹山は提起しました。米沢では農・商・工連携のキーマンは鷹山でした。
 そして大和の晒し、近江の蚊帳、越後小千谷の縮みなどはみな米沢の麻糸を原料にしているが、なぜ米沢で最終製品にしないのかと問いかけ米沢には技術者がいませんならば招けいやカネがございません――といった問答の末、関西や越後から技術者を招きました。
 その時、鷹山は、改革には目前の危機克服と、子孫に何を残すかという長期のものがある、両方を同時進行させるために先行投資もやれと説いたのです。
 こうして米沢には今も和紙、紅花の工芸品、生糸、鯉の養殖…と鷹山の時代に開発された名産品が数多いのですが、一面では、その後の開発品は何もないのかという疑問もわきます。
 加藤 お話は極めて今日的課題です。デフレ時代の農業振興はやはり1つは特産品づくりですね。知恵を出さなければいけません。話は戻りますが、将軍吉宗は千葉県に初めて白牛を導入して酪農の事業を始めたし、パセリなどの西洋野菜もどんどん導入し、薬草園もつくっています。
 童門 小石川にね。漢方薬を国産化しています。米だけに頼らないよう災害時の代替食として甘藷も導入しました。
 加藤 吉宗時代には練馬のダイコン、谷中のショウガなど野菜のブランド化も進みました。なにしろ当時の江戸はパリの人口50万人より多い世界一の100万都市でしたからね。その糞尿は新田開発に使われ、リサイクルされていた。エコのサイクルがすでにできていたのです。
 童門 糞尿のお礼にと百姓が大家に渡した野菜をめぐって糞尿はおれたちがつくったんだと店子と大家がけんかになり、大岡裁きで両方が野菜を受け取るようにしたなんて話もあります。江戸史を眺めた時にやはり市民の存在を意識したのは吉宗が最初だと思います。だから目安箱も雑踏地に置きました。
 それから吉宗は和歌山から連れてきた腹心たちをお庭番にした。腹心を優遇するための組織改正などはしなかった。だから在来の幕府役人は喜んだ。城内には輸入した花などを植える植物園や珍獣などを飼う動物園がありましたが、お庭番はそこの番人です。身分は和歌山時代と比べ降格です。ところが、このお庭番は実は隠密でした。吉宗の改革に、どこの大名が協力的か非協力的かをひそかに探る役割を持っていたのです。
 吉宗は庭に出て、そのお庭番から例えば「尾張宗春様は改革に批判的です」といった報告を受けます。宗春は景気浮揚と消費拡大を主張しました。これに対し吉宗は「元禄時代に国民は自分さえ良ければ良いとして、他人への思いやりや優しさを失った。これは心の赤字である。江戸城の財政再建と同時に心の赤字も回復したい。経済成長をある程度抑えるため改革は必要だ」そんなやりとりもありました。
 だから、お庭番という目付はある意味で享保の改革の組織内オンブズマンといえます。

◆意識改革へ藩校つくる

 加藤 一方では年貢を四公六民から五公五民にして農民一揆が増えたという記述もあります。しかし以前、徳川18代宗家の徳川恒孝さんと対談の機会を得た時に徳川さんは、野菜とか工芸品には課税しなかったから知恵ある農家は換金作物を作ったーーなどとおっしゃっていました。今の企業に対する実効税率は4割ほどですから一面的に吉宗が農民を収奪したとはいえないということです。
 それから徳川さんの話で面白かったのは「一富士二鷹三茄子」の三茄子は静岡県の折戸で冬場に収穫できるナスのことであり、将軍家への献上品で1個1両もしたという話です。そこでね。私どもは農水省の種子バンクから昔の折戸ナスの種子をいただいて、営農・技術センター(神奈川県平塚市)で260年の眠りから目覚めさせ、発芽させました。
 またハウスのない時代の栽培法を調べた結果、石垣イチゴと同じように石垣の保温効果を活用した作り方だとわかりました。石垣畑の北側にはキビのようなものを植えるという工夫もわかりました。北風を防ぐほかにダニをよける効果があるからです。今、同センターではできる限り昔の栽培方法を再現したかたちで折戸ナスを作っています。これも究極のエコを農業に活かす試験だと思います。
 童門 今、全国に残っている名産品は全部江戸時代のものですね。明治以後のものはほとんどありません。
 加藤 江戸時代のお伊勢参りは各地の名産品を食べ歩く旅でした。これに比べ米国の食文化はマクドナルドやケンタッキーフライドチキンのようにナショナルチェーンをつくって、どこへいっても同じ味だという安心感を持たせます。日本は地産地消文化・駅弁文化だといえます。
 折戸ナスは、JA清水市管内で栽培されておりますが、生産量はまだ少なく、清水市内周辺での販売に限られています。今後、形状の整った規格品に外れる折戸ナスを、市場出荷するのではなく、地場産の食材をたくさん使う居酒屋、赤提灯ならぬ「緑提灯」を掲げる地産地消のボランタリー活動を進める店に直接届けることを検討しています。折戸ナスは水ナス系統ですので、料理用にカットしてしまえば、形状は関係ありません。こうしたことが、エネルギーの新たな出口を創る「欝の時代」のマーケティングと思います。
 童門 江戸時代に名君といわれた人はみな名改革者でした。そして藩士たちの意識改革のために研修は欠かせないという姿勢を貫いています。だから財政難の下でも藩校をつくっている。鷹山も興譲舘を設けました。
 加藤 農家は原油高や資材高などで存亡の危機にあり、JAグループはこれをどう救うのかということで、あらゆる手を考えなくてはなりません。それには人材です。不況の時代こそ教育投資、研修をやっていくことが決め手になります。
 童門 明治維新の時の松下村塾は維新の元勲を輩出させた面ばかりがいわれますが、実をいうと長州藩の農政改革の核になっていました。ここで学んだ高杉晋作や桂小五郎らは村田清風という農政学者の意見で2つの新しい役所をつくっています。撫育方と越荷方です。
 萩城の中枢にあって撫育方は農業振興のため農民に資金を貸付けました。また新しい農業技術と知識を集めて、それを農民に伝えました。越荷方は下関など3港からの物資搬出の役所です。そこでの仕事に従事した高杉らの活動はもう武士ではなく、優れた農政指導者としての働きになっていました。そのころの長州は他藩をすべて敵に回して孤立していましたが、土から物を生む農民を土台にした力がないと幕府をつぶせない、武士なんか役に立たないと考えたのです。だから幕府に囲まれて戦ったのは奇兵隊など生産に直接関わっている人たちでした。

「お庭番」実はオンブズマン 童門
究極の循環社会だった江戸時代 加藤

◆鬱の時代に夢を希望に

 それまでは萩の城下町にいる特権商人が生産物を買い集めて来て藩の重役と癒着して高いマージンを取って流通させていました。それを村田清風の意見で、生産者と消費者を直結にし、そこで得たものをすべて憮育方に回し、集まったカネは特別会計とした。藩の一般財政がどんなに赤字でも貸さなかったのです。このカネは結局、新しい武器や軍艦を買う倒幕資金になってしまいましたが……。
 加藤 鷹山は17歳という若さで改革を始めた。長州藩の下級武士も20代で日本の改革を担いました。一方、例えば伊能忠敬は50歳で隠居して日本地図つくりの偉業を成し遂げました。歴史を眺めるとオールドパワーも軽視できませんね。
 童門 だから60歳で第2の人生なんていっちゃいけないんですよ。若い力とオールドパワーの混成軍で同時進行しているということです。私は人生論の中で起承転結の結を止めちゃいました。起承転転で最後まで転がっています。
 加藤 以前にルパング島で30年間孤独な戦いを続けた小野田寛郎さんと対談しましたが、今なお、85歳で元気に活動を続けてます。後方攪乱の使命を帯びて戦後も現地の民兵組織と交戦を続け、勝つ戦いでなく負けない戦いをした、自分の存在を誇示しながら必ず逃げのびるのが使命だったというのです。やっと日本に帰っても、それで終わらずに今度はブラジルに渡って畜産の事業を始めました。
 現地では山中で五感を鋭く磨き、食べ物は目と鼻と舌で腐敗を見分けた。だから帰国後、賞味期限の日付を見て捨てるのを見て驚いたといいます。そんな話を聞いて現代のコンプライアンスは他律他制だが、日本の伝統は自立自制ではなかったかと反すうしています。
 童門 日本人の精神的なバックボーンだった儒教がほとんど影を薄めたということが1つあるのかも知れませんね。昔はマイナス面もあったが、孔子や孟子の教えがいわれました。人間としてやるべきこと、やってはいけないことの物差しがある程度はっきりしていました。
 私の父は飲んだくれでしたが、人に騙されても、人を騙すなといつも訓戒を垂れ、母は朝起きると必ず表を掃いておけと命じました。私はその2つを今も守っています。そういう家庭から始まるしつけが今はなくなりました。それが残っていたのが農家でしたが、今はねえ。
 加藤 最後にJAグループに期待するものがあればお聞かせ下さい。
 童門 食料自給率は5割などといわずに、もっと上げてほしいと思います。また農民はもっと誇りを持ってほしい。修身斉家治国平天下という順番にハードルが上がっていく考え方がありますが、まずは自分を正し教養を積むことが大切です。次いで単に耕作するだけでなく、地域の指導者として土から学んだことを情報として堂々と発信できることが地域住民のレベルアップにもつながっていくような活動が求められます。若者たちには食料生産を通じて地域を守る使命感みたいなものをもってほしい。鬱の時代の中で躁になり得るような夢とか希望をつくり出していく気概がほしいですね。

対談を終えて
 童門さんと対談して、現在を「鬱の時代」「デフレの時代」とすれば、同様な時代背景にあった八代将軍吉宗の時代に、社会経済・農業を活性化するために、省資源、新規投資による農業改革が行われ、上杉鷹山の米沢では素材産業から付加価値産業化を進める藩政改革があったことは注目すべきことです。こうした先人の知恵なり知見を活かして、今後の農政なり、事業運営に資することが求められていると思います。
 都市と地方の格差の拡大、最近の事故米事件などを見るにつけ、日本の経済社会が、利益至上主義と市場原理主義に傾きすぎ、企業の社会的責任が希薄化し、かつて日本の企業が持っていた共同体的側面が急速に弱体化していると思います。こういう時代こそ、協同組合運動、全農の経営理念「生産者と消費者を安心で結ぶ懸け橋になる」の重要性が高まっていると考えます。(加藤)

(2008.10.23)