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農業協同組合新聞創刊80周年記念
食料安保への挑戦(2)

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【戦後農協運動史(2)】
農業協同組合から地域協同組合へ

東京農工大学名誉教授 梶井功

 高度経済成長が始まった1960年代、農業・農村も農業基本法農政下で農業構造の改革が課題となる。日本の農業構造をどう描くかは今もまさに大きなテーマとなっている。昨今指摘されているのは日本の地域条件と現場の実態に合わせて将来像を描くことであり、それの中心的な担い手としてJAの役割が期待されている。高度経済成長以降、農協組織は農政と農村の変容にどう対応してきたか。そこから学ぶべきことは何だろうか。

◆基本法農政に対置した営農団地推進

1961年6月、農業基本法が制定・公布され、日本農政史上初めての構造政策を含む基本法農政がスタートした。
 構造政策はこの時初めて問題にされたわけではない。農地改革の時も、零細な“過小農”を“適正規模農家”にするには、どうしたらいいのかというかたちで問題にされたことだが、当時の認識は“実ハ農業ダケデハ、過小農ノ問題ハ解決致シマセヌ…是ハドウシテモ農業以外ノ工業ノ発展ヲ待チマシテ、其ノ面ニ吸収シテ行クト云フコトガアリマセヌト、ドウシテモ過小農ノ問題モ徹底的ニ解決スルコトハ出来ナイト考ヘテ居ル次第デアリマシテ…此ノ点ニ付キマシテハ、一ツハ、日本ノ経済ノ回復ニ見合ッテ具体的ニ指導方法ヲ考ヘテ行ク…”というものだった(第2次農地改革法案国会審議での和田農相の発言)。
 和田が待ち望んだ“具体的ニ指導方法ヲ考ヘ”る条は、和田がこう語ってから10年以上たってだが、“投資が投資を呼”んだ岩戸景気(1959〜61)のなかで与えられた。池田首相の国民所得倍増計画(1960)が、14万3000人の離農転職人口の存在を高度経済成長実現の重要な条件とせざるを得ない状況を、農政当局は好機と捉えたのである。
 基本法を用意した基本問題調査会は、構造問題について、農業就業人口1000万人を前提にして“平均で2町歩の専業経営250万戸…平均4反歩の安定兼業農家…250万戸で…戸数500万戸、耕地面積600万町歩”の見取図を試算として示していた。“効率的かつ安定的経営体”として都府県でも14〜15haを目指すという現在の構造政策の目標にくらべれば、ささやかな想定でしかなかったというべきだろう。
 が、離農多発を前提にしての自立経営育成を目指す構造政策には、系統農協は反対だった。基本問題調査会が論議を重ねていた60年9月、全中理事会は「農業基本法について」を決定、公表する。記念碑的文書といっていいだろう。再録しておこう。
 農業基本法について(60・9・12)
 一、農業基本法は、わが国農業の健全な発達と農業者の農業経営および生活の改善向上を国の基本方針とし、わが国の産業全般の施策は、この基本方針に立脚して行われるべき旨を明らかにするものでなければならない。
 二、上記の国の基本方針は、経済の自然の推移をもっては農業経営の維持困難に陥り、経営の意欲を犠牲にせざるを得ない弱小な農業者を保護し、その経営の維持発展をはかる措置を講ずることを含むものでなければならない。
 三、農業諸制度は、経済社会の変遷に対応し、実情に即しつつ農業基本法の方針に従って改廃されるべきものであり、改廃そのものを農業基本法に規定すべきではない。
 “弱小な農業者を保護し、その経営の維持発展をはかる措置”として、行政のすすめる構造改善事業に対置してJA系統が提起したのが営農団地推進だった。
 構造政策とならんで基本法農政がもう1つの柱として打ち出したのは、生産政策としての選択的拡大政策だった。高度成長がもたらす所得向上は、畜産物、果実・野菜の需要を増大させる。畜産、果樹園芸部門の選択的拡大をはかろうという政策だが、その方向は、市場対応を重要課題とするJAがすでに取り組んでいたところだった。その取組みのなかで、食肉加工資本などの畜産インテグレーションの動きに対抗する必要もあって、まず畜産から営農団地構想が練り上げられていたのであり、構造政策そのものには賛成ではないが、構造改善事業に含まれていた主産地形成に“主体的”に対応する措置として営農団地をJAは打ち出したのだった(1960・10全中「大企業の畜産進出についての考え方」、61・7全中「畜産団地造成の手引」、62・5全中「営農団地の造成について」)。

◆米の生産調整問題の登場とJA

 “主体的”な対応として営農団地を打ち出したのは、市町村事業として行われる構造改善事業が、流通対応を無視、といわないまでも軽視しがちなのを問題にしたからだが、その批判は行政も受け入れざるを得ず、農業経済圏整備事業(1966〜)、営農団地特別整備事業(1969〜)の導入、そして農業団地育成対策事業(1972〜)となって営農団地と農業団地は一体化していく(この構造政策とJAとの関係では、62年農地法改正で農業生産法人制度がスタートしたことと農地信託事業が認められたことが、今日に続く問題としてあることを附記しておこう)。
 今日に続く問題としてより以上に重要な問題は、米問題の発生である。選択的拡大を言った基本問題調査会は、でん粉質食糧の需要減を言ったものの、米については一人当たり消費量の10年後3%減しか予測せず、米を輸入しなければならなかったことも影響したのか、基準年(1957)より1割増の1300万トンを10年後の生産予測としていた。が、現実はこの予測をはるかに超え、一人当たり消費量は13%減、総生産量は67年に1445万トンを記録するようになる。米の過剰の発生、そして今日に続く米の生産調整問題の登場である。
 この問題についての最初の施策提案が1969・9農政審答申だが、その答申は“政府買い入れ価格を引下げることが筋道である”ことをいいつつ“生産の地域分担を明らかに”すべきことを提案して、こう指摘していた。
 “米その他農産物の今後の需要事情を考慮すると、需要に見合った農業生産の推進が必要となっている。国及び地方公共団体は、農業団体と十分協議を行い、ガイドポストとして、主要な農産物について、例えば、都道府県単位、さらには都道府県内の農業地帯について生産の地域分担を明らかにし、農業団体などによる生産と出荷の調整体制の整備につとめる必要がある。政府はこの点について法的措置を含めて具体的施策を早急に検討すべきである”
 高コストの劣等地稲作の転換を考えていたのである。が、“非常緊急の措置”として70年産米から実施に移された生産調整は、全国の水田を対象に行われるようになり、今日に至っている。自民党総合農政調査会の席での、当時の全中会長の“私見だが、1970年からの米の作付は一律一割減反すべきである”との発言の影響力が大きかったとされる。以後、今日までJA組織は生産調整割当完遂に苦労し続けることになる。そして、2003年食糧法改正以後は、生産調整は“農業者・農業団体の主体的な需給調整システム”だとされてしまっている。

◆経済低成長と農村の変容のなかで

 生産調整が始まった年のその翌年の71年、“金ドル交換停止”のニクソン声明が世界中にショックを与えた。以後、ドル安円高のツケは、強い農産物に弱いドルの代替を求める動きをアメリカにとらせ、わが国はオレンジ、果汁、牛肉(71年)、ハム、ベーコン、配合飼料(72年)、サクランボ(77年)と次々に自由化を迫られることになる。また、貿易で稼いだドルが円に換えられ、過剰流動性を増した資金は、72年、田中角栄首相の掲げる「日本列島改造論」に踊らされて土地投機に流れ込み、地価昂騰をもたらしたが、その翌年は、アメリカの大豆輸出禁止に第4次中東戦争、原油価格昂騰でトイレットペーパー買いだめ騒動も起きるという“狂乱物価”となる。この“狂乱物価”の72年、全農がスタートしていることをつけ加えておこう。
 地価昂騰は“農地価格の土地価格化”をもたらし、自作農的規模拡大の道を閉ざすことになるが、影響は経済全般に及び70年代後半からは低成長経済に移行する(70年代半ばまで、名目経済成長率は不況で下がった年でも10%になることはなかったのに70年代後半、特に78年以降は上がっても10%になることはなく、92年以降は3%以下に低迷している)。
 こうした日本経済の高度成長から低成長へ、そして21世紀に入ってからは不況といっていい状況の変化が、農業、農村、そして農協に与えた影響に関して、若干の数字をあげておこう。
 いずれも1965〜05年の変化だが、耕地面積は600万haから469万haに、基幹的農業従事者数は894万人から224万人へ、そしてその224万人の57.4%は65歳以上の老人になってしまっている。
 農業集落の数は70年から把握されているが、70年には14万3000の農業集落があり、その51%が農家率80%以上の農業集落だったが、2000年には13万5000に減り、集落の農家率は9%に減ってしまっている。そして70%以上が非農家だった集落は12%から42%に増えた。混住化、農村の都市化である。もう1つ、65年には73%あってイギリスを上回り、ドイツとならんでいた食料自給率は、今、40%で喘いでいる。いずれも日本農業の衰微・縮小を示す数字というべきだろう。
 それは当然にJAの事業にも大きな影響を与える。販売、購買の動きをで示しておこう。販売も購買も85年から落ちていると読める。が、この間の物価変動が大きいから、2000年を100にした消費者物価指数で修正してみると、実質的には販売は77年から、購買は80年から落ちているとみてよさそうだとわかる。

 事業環境、組織基盤の変化へのJAの対応は、まずは合併による基盤拡充となる。農協合併助成法ができるのが1961年だが、60年になお1万2000を数えた総合農協は、70年6000、80年4500、90年3600、2000年1500になり、05年には1000を割るまでになる。1県1JAというところもでき、市町村単協―県連合会―全国連合会の3段階だった農協系統組織は2段階になりつつある。
  が、組合員数は逆に増えており、60年の654万人が05年には920万人になっている。准組合員が増えたからであり、60年には13%でしかなかった准組合員が05年には45%を占めるようになっている。
  農村自体の都市化、准組合員の増加は、JAの組織としての性格にも変容を迫らざるをえない。農業協同組合から地域協同組合へである。信用事業の業態の変容を可能にした92年農協法改正は、JAの地域金融機関としての機能を著しく強めるものとなった。中金を頂点とする「JAバンク」化はそれを一層強めることになろう。
 農協法の目的も“以て…農民の経済的社会地位の向上を図り、併せて国民経済の発展を期することを目的とする”から、“農業者の経済的社会的地位の向上を図り、もって国民経済の発展に寄与することを目的とする”に変わっている(01年改正)。主軸の位置をズラしたわけだが、近年激しくなっている財界筋の独善的なJA批判が、“国民経済の発展に寄与する”ことを口実にしていることに注意しておくべきだろう。

(2008.10.28)