特集


『創立80周年を迎えた日本農薬』

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日本、そして世界の農業生産への貢献が第一の使命

研究開発型企業として新農薬の創出に邁進

 08年11月17日、日本農薬(株)(大内脩吉社長、本社:東京都中央区、資本金:約109億39百万円)が創立80周年を迎えた。
 この歩みは、日本の農薬産業の歴史そのものでもあったが、その前半は、戦前戦後の食料増産および農業生産の省力化と効率化などへの貢献、その後半は、環境保全と安全性の確保を果たすための、新規農薬の創出を基軸とした新たな農薬産業の開拓と環境負荷の小さい農薬創出による「食の安全・安心」確保への挑戦の道だった。
 同社は現在、「ありがとうを明日の力に」をキャッチフレーズに、日本と世界の環境を守り、食糧生産に不可欠な生産資材としての農薬のさらなる技術革新を継続し、「研究開発型企業」としてのひとりだちを構築しつつある。
 大内社長は、本紙のインタビューで「日本、そして世界の農業生産への貢献が第一の使命」だと語った。アジア、欧州、米州の3極体制を基軸としたグローバルな海外展開を披露するとともに、業界が農薬行政の刷新に直面している現況の中で、次のステップに向けた新たな農薬産業のあり方、確かな路線を明示した。氏へのインタビューを中心に、特集をまとめた。

キャッチフレーズは「ありがとうを明日の力に」

◆日本と世界の食糧・環境を守る技術革新で信頼に応える責任が

ありがとうを明日の力に
大内脩吉社長
大内脩吉社長

 ――創設は1928(昭和3)年ですが、この年、クミアイ化学工業の前身である柑橘同業組合で農薬製造業が開設されています。業界の両雄が80周年ですね。
 大内 「光栄です。同社を含め多くの方々にご支援をいただいたことに今日の結実があると思います。当社は、旭電化工業(株)(現(株)ADEKA)の農業薬品部門(大井農薬工場・東京)と藤井製薬(株)(大阪)の合併により、わが国初の農薬専業メーカーとして産声を上げました」
 「熾烈な競争を繰り広げていた当時の流通環境など諸条件を総合的に捉えると、東西企業の合併という、時代を先取りした先人たちの先見の明に敬服いたしました。以来、業界の草分け的存在として日本の農薬の普及と農業の発展に寄与・貢献してきたと自負しており、この歩みは日本の農薬産業そのものの歩みでもあったと思います」
 「農薬の研究開発技術を礎に技術革新を進め、新規農薬の創出と相俟って医薬品、動物薬、有機中間体などの事業展開も拡充し、今日に至りました」
 ――企業も生きものです。決して平坦な道では。
 大内 「80年間の前半は、製剤メーカーの立場で戦前戦後の食料増産と農業生産の省力化などの効率化に向けた農薬の生産・技術普及を中心とした農薬産業の発展とともに、当社も成長を遂げてきました」
 「その後、環境保全と安全性の観点から水銀剤・有機塩素剤などが使用規制・登録抹消となり、代替剤として海外から導入農薬・有機合成農薬などの新規農薬の生産販売とキメ細かな技術普及活動を通じて農薬事業の拡大をはかってきた訳です」
 「直近の20年間は、コメの減反政策が行われる中、国内においては外資系メーカーの直販戦略にともなう品目欠落や農薬需要の低迷および市場環境の変化などにより、98年には赤字、無配に転落し経営改革と企業・事業の再構築を行うなどの暗く重苦しいトンネルの時期も経験しました」
 ――トンネルを抜けるには起爆剤、突破口が。
 大内 「このような状況にありながら、当社は研究開発型企業として新規技術の開発および新製品の創出をはかり、フジワン、アプロードなどに続いて、ブイゲット、フェニックスなどの自社開発品目の上市を果たし、かつ海外展開の強化および事業領域の拡大をはかったことで、漸く収益体質の改善が水面上に見えるようになりました」
 「80周年を迎えることができましたのも、偏にお取引先をはじめステークホルダーの皆様のご支援・ご協力を頂戴したからこそ、今日の日本農薬があるものと深く感謝いたしております」
 ――キャッチフレーズに「ありがとうを明日の力に」を掲げておられます。
 大内 「日本と世界の食糧と環境を守り、食糧生産に不可欠な生産資材としての農薬のさらなる技術革新を継続していく農薬メーカーとしての存在感を高められればと思っています」
 「当社製品と技術に対する信頼をさらに積み重ねていくとともに安全性への追求と拘りを続け、弛まぬ技術革新を進めて信頼に応えていく責任があるとの思いを新たにしています」

◆製品ポートフォリオ拡充で事業基盤のさらなる強化へ

新農薬の創出に邁進する総合研究所(河内長野市)
新農薬の創出に邁進する総合研究所(河内長野市)

 ――今日、自社開発品をあわせ持つ総合農薬メーカーへの志向を強められています。
 大内 「背景には、いわゆるライセンス販売に終始するだけでは、市場競争が激しくなるとともに、経営の安定性・継続性の確保が難しくなるとの判断がありました」
 「これを払拭するためには、メードインジャパンの農薬開発による製品ポートフォリオの拡充をはかり経営基盤強化の必要があったのです」

  ――「FAMDE」と呼ばれる製品がラインアップされました。
 大内 「自社品の第1号はいもち病に対して安定した防除効果を示すフジワン(有効成分:イソプロチオラン)で、75年からの上市です。これにともない、78年には鹿島工場で原体製造の本格生産を開始しました。念願の自社開発→原体製造→技術普及→販売の一貫体制を構築できたことの意味は大きく、今日ある基礎が固まりました」
 「その後、さらに研究開発力の継続強化をはかりウンカ・ヨコバイ用殺虫剤アプロード、紋枯用殺菌剤モンカット、殺ダニ剤ダニトロン、除草剤エコパートなど自社開発品を続けて上市しました。FAMDEはこれらの総称で、事業の推進力を高めました」
 ――一方で、事業基盤の強化にも取組まれています。
 大内 「90年代には外資メーカーの直販の影響、農薬需要の低迷、さらに市場環境の変化により経営的にも厳しい時期もありましたが、02年には三菱化学(株)の農薬事業と(株)トモノアグリカの一部営業権を譲り受け、製品ポートフォリオを拡充し総合農薬メーカーとしての事業基盤強化をはかった訳です」
 ――95年の研究所の統合も新鮮でした。
 大内 「研究開発体制のさらなる飛躍のために、研究所の統合による総合研究所設立は避けて通れない必須要件でした。その成果は、03年のいもち用殺菌剤ブイゲット、07年のチョウ目用殺虫剤フェニックスとして結実し、現在では19の自社原体を保有するまでに至りました」
 「さらに、殺虫剤アクセル、コルトといった新規剤も登録申請中であり、今後もいっそう研究開発型企業として新農薬の創出に努めていきます」

◆国や地域のビジネス環境考慮し現地販社の起用など柔軟姿勢で

河内病虫害研究農場の落成式当時(昭和5年)
河内病虫害研究農場の落成式当時(昭和5年)

 ――海外展開もいっそう充実してきました。
 大内 「海外展開は、従来、製品や原体のライセンス販売を主体としてきましたが、その後、普及販売拠点の拡充も進めました」
 「アジアでは69年にマレーシア農薬を設立、今日では台湾に日佳農葯、バンコックと上海にそれぞれ駐在員事務所、韓国に普及員を配置しています。オーストラリアの現地法人への出資も、今年果たすことができました」
 「欧州、米国の拠点づくりは、それぞれ92年、95年のことで、どちらも事務所の開設からのスタートでしたが、現在ではニチノーヨーロッパ、ニチノーアメリカとして現地法人化し、精力的に事業展開をはかっています。今後もいっそうインド、ベトナム、ヨーロッパなどを中心に現地普及員を配置し、地域に密着した普及販売体制の強化をはかっていきます」
 ――今、海外展開で大切なことは何でしょうか。
 大内 「世界的なトレンドとして、人口増による食糧増産やバイオ燃料の需要増による農薬需要の増大を鑑み、国や地域のビジネス環境や特性に合わせて現地販社の起用や直販、またはライセンス販売を柔軟姿勢で展開していくことが大切なのではないでしょうか」
 「当社は現在、海外売上高の50%以上を韓国、インドを中心としたアジア市場で占めていますが、今後は、早急にアジア、欧州、米州の3極体制を確実なものとする中で、各地域の開発・普及・販売活動を加速・促進し、バランス良い海外展開を目指します」
 「さらに、海外展開を進める中で自社剤の最速・最大・最長化を追求すると同時に、他社剤の導入にも積極的に努め、全社を挙げてより充実した品目ポートフォリオを構築していきます」

◆3つの基本理念を忠実に実行し日本、そして世界の農業に貢献する

 ――世界経済が揺れています。現在の日本経済・農業の姿をどう捉えられていますか。
 大内 「サブプライムローン問題に端を発したアメリカの金融不安により株式・為替市場が混乱し、実体経済への影響も出始め、円高による輸出の大幅鈍化、所得の伸び悩みや物価上昇から個人消費も低迷するなど、景気は悪化するとの見方が一般的です」
 「世界的には人口増加による食糧増産やバイオ燃料の需要増大により、食料増産・食料確保が叫ばれる中、日本でも輸入食品による食の安全・安心を揺るがす事件が頻発しており、食料自給率向上に向けた論議が活発化するなど、これまでとはハッキリ潮目が変わってきています」
 「日本農業はと言えば、農業従事者の減少など根本的な課題が残されたままで、原油や原材料価格の高騰による農業生産資材のコストアップが農家を直撃し、さらに農業経営を圧迫するなど足元では厳しい状況が続いているのが現状ではないでしょうか」
 「今こそ、私どもの農業生産への貢献、果たさなければならない社会的責任の重要性が問われている時代はないとの認識です」 
 ――最後に、農薬企業としての理念と今後の戦略、展望などをお聞かせ下さい。
 大内 「基本理念として次の3つを掲げています。1つ目は安全で安定的な食の確保と、豊かな緑と環境を守ることを使命として社会に貢献する、2つ目は技術革新による優れた商品と価値の創出にチャレンジし、市場のニーズに応える、3つ目は公正で活力ある事業活動を通じて社会的責任を果たし、信頼されること、の3つです。これを忠実に実行することが大切なのではないでしょうか」
 「具体的には、農薬の研究開発、普及販売を中核事業として日本のみならず世界の農業生産に貢献することを第一の使命とし、現在、鋭意進めている海外展開を成長エンジンとして、ニッチ市場を狙いながらグローバル化を目指していきます」
 「さらに、培ってきた農薬の研究開発技術をもとに、医薬品、動物薬、有機中間体をはじめとする周辺事業の拡大にも鋭意取組んでいきます」
 ――ありがとうございました。

日本農薬のあゆみ  
1928年 日本農薬株式会社創立(本社、大阪)
1930年 河内病虫害研究農場開場
1934年 佃工場(現大阪工場)竣工
1943年 フィリピン事業部開設
1948年 農薬登録1号(砒酸鉛)
1953年 埼玉県戸田に東京工場竣工、^現「ふじいち会」発足
1955年 北海道出張所(現札幌支店)開設
1956年 化学研究所竣工
1959年 本社を東京に移転
1961年 沖縄に第一農薬株式会社設立
1964年 名古屋出張所(現名古屋支店)開設、全購連(現全農)と取引開始
1969年 佐賀工場竣工、マレーシアにACM社(マレーシア農薬)設立
1973年 安全性研究所設立
1974年 株式会社ニチノー緑化設立
1975年 フジワン発売
1976年 茨城県に鹿島工場竣工
1979年 東北営業所(現仙台支店)開設
1983年 福島工場竣工
1984年 アプロード発売
1985年 株式会社ニチノーレック設立、モンカット発売
1989年 ジャパンハウステック(株)(現(株)ニチノーサービス)設立
1990年 日本エコテック株式会社設立
1991年 ダニトロン発売
1992年 ロンドン事務所開設
1995年 総合研究所完成、ニューヨーク事務所開設
1998年 マレーシア事務所開設
1999年 エコパート・サンダーボルト発売
2000年 バンコック事務所開設
2001年 ニチノーアメリカ設立
2002年 (株)トモノアグリカ・三菱化学(株)より農薬事業を譲受
2003年 ブイゲット発売
2005年 上海事務所開設
2007年 フェニックス発売、ニチノーヨーロッパ設立
日本農薬の自社製品  

日本農薬株式会社のホームページhttp://www.nichino.co.jp/

(2008.11.21)